Quantcast
Channel: 沖縄県風土記や奄美を学んで旅に出よう
Viewing all 56 articles
Browse latest View live

宮古島島民台湾殺害事件は、台湾山中をさまよった生存者のうち54名が台湾原住民によって殺害された事件である

$
0
0


宮古島島民台湾殺害事件

   
宮古島島民遭難事件(みやこじまとうみんそうなんじけん)は、日清修好条規の結ばれた1871年(明治4年)、琉球王国首里王府に年貢を納めて帰途についた宮古八重山の船4隻のうち、宮古船の1隻が台湾近海で遭難し、台湾東南海岸に漂着した69人のうち3人が溺死(1名は高齢のため脱落説あり)、台湾山中をさまよった生存者のうち54名が台湾原住民によって殺害された事件である。現在の日本史教科書では、「琉球漂流民殺害事件」と記述されている。
  日本では長く「琉球漁民殺害事件」と記述されてきたが、「宮古島民台湾遭難(遭害)事件」、「台湾事件」などと称され、統一した呼称はない。台湾では遭難船が到着した場所に因み、「八瑤灣事件」(はちようわんじけん)、あるいは「台湾出兵」と一連のものととらえて「牡丹社事件」と称する[1]

  日本政府は、事件に対し清朝に厳重に抗議したが、原住民は「化外の民」(国家統治の及ばない者)であるという清朝からの返事があり、これにより、日本政府は1874年(明治7年)、台湾出兵を行った。
宮古島島民遭難事件 場所 日付 標的 兵器 死亡者 負傷者 犯人 動機
Mudan Incident of 1871 tombstone.jpg
那覇波の上の護国寺にある「臺灣遭害者之墓」
台湾南部、当時の地名双渓口
1871年(明治4年)11月8日
年貢を納めて台風に遭い台湾山中を彷徨える琉球人
蕃刀
54人
虎口を脱せし者12名
台湾パイワン族
不明


事件の概要

発端

 納税の帰り、4隻の船が1871年(明治4年)10月18日、那覇を出港。風がやみ慶良間諸島に止まっていたが、10月29日に出発。強風に遭い、八重山船の1隻は行方不明となり、1隻は台湾にたどりついた。船は十二端帆船、144石積みと当時としては大型で、別名、山原船(やんばるせん)と言う。宮古船の1隻は宮古島に着いたが、他の1隻はこの遭難事件に遭った。

 漂着したのは台湾南東岸の高雄州恒春郡満州庄九柵であり、64名がここに上陸した。そこへ言葉の通じない2人の現地人が現れ、略奪などを働いた。
 漂着者たちは岩の洞窟に泊まったりしながら、山中をさまよったのち、首切りにあった。詳しくは「生還者ヨリノ聞書」(大山鹿児島県参事上陳書付属書類の2にある)参照。また照屋宏は1925年生存者島袋亀から聞き取りし、記録している。

遭難事件の記録

琉球政府の記録

 琉球政府で記録したものをここに記す。宮古島69人台湾で遭難、12人生残り、福州府に護送せられ帰唐船へ乗付那覇に帰着した中の二人、仲本筑登之(仲本加奈)、島袋筑登之(島袋次良)よりの聞書を示す。
明治4年10月18日、宮古島(2隻)と八重山(2隻)の船計4艘は那覇港から出帆した。船は琉球近海の慶良間島に到着、そこで風や潮の状態をみて、29日同所出発、11月1日、大風が吹いて、宮古島行の一つの船は漂流した。
 11月5日、台湾の山を発見した。6日上陸開始したが、上陸時3人は溺死した。64人が上陸して、人家を求めて徘徊した。漢族二人に逢い、人家の有無を質問したら、西方にいけば大耳の人あって首を切るので、南方にいけと教えた。両人の案内にて南方に向かう。
 両人衣服類は奪い取る。悪人の同類が多いだろうと落胆した。両人の教えに従い石の洞窟に泊まった。両人は盗賊の類と思い、別れて西に転じた。(中略)7日、南方に人家15、6軒あり。
 人あり小貝に飯を盛り66人に与えた。しかし残りの所持品を奪った。投宿す。  
8日朝、現地人は宮古人に向かって、我ら猟にいかんとす、ここに待てとあるが、疑惑を生じ、散りじりになる。人家5、6軒あり、一人の老翁が、琉球なら那覇か首里かと問う。
 この人は危害は加えなかったが、その後に、30人くらいが追ってきて、宮古人の簪、衣服を剥ぎ取る。1、2人ずつ門外に追い出し、刀をもって首をはねた。(以下略、生存者が那覇港に帰るまでのことが記載されている。)

生存者の1925年の報告

 政府関係者が聞きとったとは別の情報もある。照屋宏は老齢になった生存者、島袋亀から1925年12月、那覇で直接話を聞いた。殺害の直前、蕃産物交換業者の凌老生宅に逃れてきた遭難者たちがいた。集落から追ってきた蕃人たちは酒2樽を要求したが、凌老生宅にはたまたま酒樽がなかった[5]
 亀とその親は、凌老生が意味ありげに目配したのに気付き、床下に隠れた。知らない間に何人かがすでに門外に連れ出されていた。掴まれた細帯を振り切って逃げた幸運なものもいたが、頭髪を掴まれ引きづられて殺害されたものもいた。一行のうち、捉えられた浦崎金は牛と交換され、同じく平良は反物5反と交換され難を逃れた[6]。現場は双渓口の原っぱで、犯行は大勢の蕃社の人により行われた。

その後の経過

 現地人の天保、林阿九が生存者を匿い、また土地の有力者の楊友旺も協力、保護にあたった。彼らはその他に現地人を宥めるために多大の出費も行った。現地には50余体の首のない死体がころがっており、相当時間放置された。楊は自宅に40日間、生存者12名に食事を与え、手厚く保護し、長男の楊河財、甥の楊河和を伴わせて生存者を台湾府城(現台南市)に送った。
 経路は陸路、統補(地名)を経て、車城(地名)から海路であった。事件は台湾を管轄する福建の地方官から清国の中央政府に報告され、清朝政府は生存者を途中で保護し、福建を経由し琉球へ送り返すべく、琉球からの入貢船を待った[7]

 この間、生存者は台南にある台湾府城で、八重山船の遭難者に会い、一緒の船で中国の福建省福州府に輸送され、半年琉球館(琉球王国の出先機関)の保護をうけた。そして、1872年(明治5年)6月7日、那覇に帰着した。

 救助をした楊らは犠牲者の供養をし、現場に墓を建て、頭蓋骨以外はそこで埋葬した。後に統捕に墳墓を建て直した。台湾出兵時、統捕に建て直した墓地に日本軍により記念碑が作られたが、石に適当なものがなく中国本土からとりよせた。軍隊が台湾を離れる直前に完成した。頭蓋骨は、日本軍が探したが発見できず、後に述べる様に、輸送中の44個の頭蓋骨を確保し、日本に持ち帰った[8]

首狩は当時台湾にあったか

 鹿児島県参事、大山綱良が明治政府に出した「上陳書付属書類」によると、仲本筑登之と島袋筑登之両人の話として「殺した人の肉を食うという説もあり、また脳をとりだして薬用にするという説もある」と書いている。

 別の文献には、生蕃の現地人はその性質が非常に残忍であり、人肉食の習慣がある、18の部落からなり、その中で牡丹社というのが、特に残忍であった、とある。
また台湾原住民(タオ族全体とアミ族の一部を除く)には、敵対部落や異種族の首を狩る風習がかつてあったという記述もある。これを台湾の漢民族や日本人は「出草(しゅっそう)」と呼んだ。その名の通り、草むらに隠れ、背後から襲撃して頭部切断に及ぶ行為である。なお、出草については、一部の蛮人が晩秋から初冬にかけて、鹿狩りをすることをいうという説明もある[9]

 これは、文化も言語も全く隔絶した十数もの原住民族集団が、それぞれ全く交流することなく狭い台湾島内にモザイク状に並存していたため、互いに異なる部族への警戒感が強かったことによるとされる[10]

 『図説 台湾の歴史』 によると[11]台湾の台北県北里郷にある十三行遺跡(今から約1800年前から800年前)に出土した骸骨には傷があったり、首のないものもあり、あるいは首狩りが行われたと思われるとある。

その後の経過[編集]

琉球を管轄していた鹿児島県参事の大山綱良は日本政府に対し、責任追及のための出兵を建議した[21]。政府は、この琉球漂流民殺害事件に対して、清朝に厳重に抗議したが、琉球漂流民保護の責任問題はもつれた。さらに、1873年(明治6年)には、台湾に漂着した備中国(岡山県)柏島村の船の乗組員4名が略奪を受ける事件が発生し、政府内外に台湾征討論が高まった[21]
同年特命全権大使として清国に渡った外務卿副島種臣は、随員の柳原前光にこの件を問いたださせたが、清朝の外務当局によって「原住民は『化外の民』(国家統治の及ばない者)である」という責任回避の返答があるのみであった。
軍人や士族の強硬論におされたこともあり、日本政府は1874年(明治7年)、台湾出兵を行った[21]。この軍事行動は、牡丹社事件(ぼたんしゃじけん)、征台の役(せいたいのえき)とも呼ばれる。

台湾出兵

 1871年(明治4年)11月の宮古島民遭難事件に端を発して、早くも1872年(明治5年)に鹿児島県参事大山綱良らの台湾征伐論が台頭し、自ら征伐せんと請うた。
 日本政府は、琉球藩が、日本と清国の両属関係にあったことはよく承知しており、いずれその決着が必要と考えていた。外務卿副島種臣は征蕃の志を有し、米国公使でチャールズ・デロング、同国人チャールズ・ルジャンドル(李仙得)を招いて政府顧問にして備えた[22][23]
 翌年になり、政府の方針が決定した。琉球の側は、清国を刺激せず両属関係を維持することを求め、日本政府へ出兵を取り止めるよう嘆願していたが、事実とは異なる情報戦略が、滋賀新聞紙上で展開してされていたこと(当時の滋賀県令は、後の琉球処分官松田道之であった)を大浜郁子が明らかにしている[24]
1873年(明治6年)3月9日、副島種臣に明治天皇は勅語を賜った。
 朕聞く、台湾島の生蕃数次わが人民を屠殺すと。若し捨て問わんとするは、後患なんぞ極まらんと。今なんじ種臣に委するに全権をもってす。なんじ種臣、それ往きて、之を伸理し(道理のあることを主張する)、以て朕が民を安んするの意に副えよ。欽哉(つつしめや)

 副島は1873年旗艦龍驤に乗り横浜を出発した。天津において李鴻章と日清修好条約を締結したので、北京に赴き清国皇帝に謁見した。その直前、謁見の方法でこじれていた時、彼は台湾事件に関して清廷の処置を尋ねた。
 総理部門の大臣(軍機大臣文詳)は、生蕃と熟蕃があり、王化に服するのを熟蕃といい、服従しない生蕃は化外に置いて支配せずと答えた。これは日本の征蕃の根拠を与えたが、文書によるものではなく、口頭の言質にとどまった[25]。そこで我が臣民は「貴国が化外の民として治めずんば、我が国は一軍を派遣して、わが民を害する残忍な蕃人を懲罰すべし。他日異議あることなかれ」、と言明した。

 副島は帰国し、復命した。しかし、1873年(明治6年10月)の征韓論争に敗れたため下野した。1874年(明治7年)4月、西郷従道に台湾征伐の命が下った[26]

西郷従道
 台湾蕃地処分につき、汝従道に命じ、事務都督たらしむ。凡そ陸海軍務より賞罰のことに至るまで委するに全権をもってす。我が国人を暴殺せし罪を問い、相当な処分を行うべきこと。若しもその罪に服さざる時は、臨機兵力をもってこれを討すべきこと。わが国人の彼地に至る時、土人の暴害に罹らざる様、能く防制の方法を立てるべき事。
 ここにきて突然、清国政府が異議を唱え、また以前はあおりたてていたアメリカ大使とイギリス公使が突然意見を変えた。米国公使ピンガムは局外中立を宣し、英国公使ハリー・パークスも出兵を批判した。大隈長官は出兵中止を伝えたが西郷は同意せず、また、日本軍隊の士気もすこぶる高く、出航をさしどめたら何がおこるかわからない状態であった。
 しかし、アメリカ、イギリスの船を使う計画は実現困難になった。勅書をたてに5月3日、兵員3658人を従え軍艦日進孟春は長崎から出航した。次いで、大有丸、明光、運送船三邦丸と、運よく長崎に入港した米国商船シャスペリィを購入し高砂丸[27]とし、また英船デルター号を買収して社寮となづけ、5月16日に出港した[28][29]

台湾出兵時の日本人兵士

 西郷は陸軍少将谷干城と海軍少将赤松則良を従え出港した。清国政府海防役人の要求も無視し[30]日本軍は激しく侵攻、熟蕃、生蕃各社は降伏した。
 最終的には牡丹社と高士仏社の頭目も降伏。西郷従道は蕃人との交歓に意を尽した[31]また従道は殺害された被害者の遺骨を集め、現地人で救助にあたった楊らの協力を得て現地に墓を造った。

戦後処理

 事後処理として日本政府は大久保利通を北京に派遣し、交渉は9月10日に開始された。北京に派遣された大久保利通は、日本の意見を強力に主張した。

 これに対し、清国政府代表(清国軍機大臣恭親王、大学士文禅)は激しく抗議した。清国の主張は、台湾生蕃の地は清国の属地である、「台湾府誌」に載せているのは属領の証拠である、清国の内地にも蕃地がある、化外の民といったのは文書でなく、口頭の言明にすぎない、万国公法は西洋諸国が編成したもので、清国は納得しないなどである。

 交渉は平行線のままに進み決裂寸前であった。中国側とは会議7回、また清国駐在イギリス大使トーマス・ウェードとの間に8回の会見もあった。大久保は最後に帰国の意思をほのめかしたが、中国の対応は極めて悠長であった。
 土壇場にきた大久保は台湾蕃地は中国の領土でないという主張を引込め、ひたすら償金を引き出すように論点を移した。台湾蕃地が中国の属国でなければ、償金を取り立てる根拠がなくなるのである。

 大久保はウェードの調停により互換条約の調印にたどり着いた。償金50万両を支払い今回の日本の台湾出兵は義挙(正義)の行動であると清国が認めることになった[32]もっとも日本の戦費はこの10倍に上った[33]

 清国はこの事件を不是となさざること。(「日本の台湾出兵を保民の義挙」と認める)清国は遺族に対し弔意金を出す。日本軍が作った道路、宿舎は有料で譲りうける。両国は本件に関する往復文書を一切解消する。清国は台湾の生蕃を検束して、後永く害を航客に加えないこと。日本軍は1874年12月20日まで撤退する。

 この条約によって、両国は、琉球は日本国の領土であり、台湾は清国の領土であることを認めた。また、琉球民のことを「日本国属民」と表現することによって、条約上、琉球が日本の版図であることを日清両国が承認する形となり、琉球処分を進める上で、日本に有利な結果となった[34]

 琉球国は廃藩置県の前に早くも日本の領土として取り扱われ、あくまで一国の形態を維持している琉球国(藩)に業を煮やした日本政府は1879年(明治12年)4月4日に琉球処分を行い、日本の一県として廃藩置県を断行した。
 その結果、沖縄は従来外務省の扱いであったのが(1872年9月28日)、内務省扱いに変更(1874年7月12日)になった。しかし、最終的に琉球の国籍が確定するのは、日清戦争で日本が勝利して後のことであった。

その後の台湾と宮古島の関係

 また沖縄戦の前後の時期には、一万人弱の人々が宮古島から台湾に強制的に疎開している[51]。なお、宮古島も含む先島諸島から九州以北への組織的疎開は行われていないが、個人的な疎開は散見される。

 宮古島と台湾の関係においては、現在でも、高校、中学レベルの交流が行われている[52][53]1997年(平成9年)1月、宮古商工会議所の一行により台湾南部観光旅行の際に宮国文雄は最初の墓参をおこない、同4月に第2回目の墓参をおこなった。西郷の建立した、〈琉球藩民五十四名墓〉の文字は読み取れるが、あったはずの〈大日本〉の字は消されていた。
 この文献には、はっきり大日本が読み取れる[54]。事件の地も訪問したが、現地と思われる処は台湾3軍の演習地とあり、入れなかった。 2005年(平成17年)6月、台湾から当時の事件を謝罪したいと子孫たちが沖縄、宮古島を訪れ、日本側の子孫と友好の握手を交わした[55]

日台関係史

$
0
0


日台関係史


   

日本
台湾在外公館
日台関係
JapanとTaiwanの位置を示した地図
交流協会台北事務所台北駐日経済文化代表処
日台関係史(にったいかんけいし)では、日本台湾の関係の歴史について概略する。


日本統治時代以前(- 1895年)

 日本では、戦国時代から江戸時代初期にかけての台湾を「高山国」、「高砂国」と称し、そのいずれもが「タカサグン」からの転訛という。これは、商船の出入した西南岸の打狗山(現・高雄市)が訛ったものと思われる。

 1593年文禄3年)、豊臣秀吉原田孫七郎に「高山国」へ朝貢を促す文書を届けさせようとしたが、当時の台湾は統一的な政府が存在しなかったため交渉先を見つけることができずその試みは失敗した。

 1628年寛永5年)、台湾貿易をめぐり、オランダの植民地政府との間に紛争発生(タイオワン事件)、江戸幕府が平戸のオランダ商館を閉鎖。

 1639年寛永16年)、将軍の徳川家光老中が、江戸に参府した平戸オランダ商館長であるフランソワ・カロンと会談。幕閣は、明朝政府の渡航許可証を与えられた中国人が台湾に渡航していることをカロンから確認できたことで、マカオから渡航していたポルトガル船の渡航禁止を決定する。

 1662年、「反清復明」を唱えて清朝に抵抗していた中国人と日本人混血である鄭成功の軍勢は、清への反攻の拠点を確保する為に台湾オランダ東インド会社を攻撃し、東インド会社を台湾から駆逐した。

 1871年12月17日琉球那覇を出帆した宮古島船が遭難し台湾南端に漂着、上陸した乗組員が台湾原住民に襲撃され、うち54人が殺害される事件が発生した。
 1874年明治7年)5月、陸軍中将西郷従道率いる征討軍3000名が台湾に上陸し、原住民居住地域を武力で制圧し、占領(台湾出兵)。清国政府が日本軍の出兵に賠償金50万両支払うことと引き換えに、日本軍が撤兵した。

日本統治時代(1895年 - 1945年)

1895年4月、日清戦争後の講和会議で調印された馬関条約(日清講和条約)により、清国が台湾・澎湖諸島を日本に割譲。
 その直後、台湾人らによる台湾民主国の建国宣言がなされる。台湾民主国軍は、上陸した日本軍と武装闘争するも、初代総統唐景、第2代総統劉永福が相次いで大陸に逃亡し、約5か月後には完全制圧される。

 日本は、1895年5月、台湾総督府を設置、樺山資紀海軍大将を初代総督に任命し、植民地統治を開始した。児玉源太郎第4代総督(1898年 - 1906年)のもとで後藤新平が民政長官に就任し、土地改革、ライフラインの整備、アヘン中毒患者の撲滅、学校教育の普及、製糖業などの産業の育成を行うことにより台湾の近代化を推進。
 一方で植民地統治に対する反逆者には取り締まりをするという「飴と鞭」の政策を有効に用いることで植民地支配の体制を確立した。

 日本の敗戦により、488,000余りの在台湾日本人(軍人166,000人を含む)の大半が本土に引き揚げ、28,000人余りが国民党政権の「留用者」として残った。最後の台湾総督安藤利吉は、戦犯として上海に送られ自害。1946年5月の勅命により台湾総督府は正式に廃止された。

国交回復から断絶まで(1945年 - 1972年)

 日本の降伏後、台湾に進駐し実効支配した中国国民党の台湾当局は、日本資産の接収を実施した(接収された資産総額は、当時の貨幣価値で109億9090万円。土地を除く)。日本は、1951年9月8日サンフランシスコ平和条約で台湾・澎湖諸島の権利、権原及び請求権を放棄したが、この講和条約には中華人民共和国、中華民国のいずれも参加しなかった。

 その後、日本は、アメリカの仲介により、台湾のみを実効支配する中華民国政府との二国間講和条約の交渉を開始。1952年4月28日日華平和条約に調印、日本と台湾(中華民国)との国交が回復した(なお、サンフランシスコ平和条約および日華平和条約では台湾の主権の帰属先は未定であるという台湾地位未定論がある)。
 同条約議定書で中華民国は日本に対する損害賠償請求権を放棄したことは、蒋介石総統の「以徳報怨」の一つとして当時の多くの日本人に受け止められた。また、日本からは白団と呼ばれる有志の軍事顧問団が台湾に渡り、金門砲戦などを指導して台湾の中華人民共和国による併合から守った。

1957年、外相兼任のまま内閣総理大臣に就任した岸信介は、同年5月に台湾などのアジア5カ国を歴訪。

 1963年9月7日、中国の通訳周鴻慶が帰国直前に台湾への亡命を求めようとして逮捕され、その後亡命意思を翻意したとして、翌年1月に中国に強制送還される事件が発生した(周鴻慶亡命事件)。中華民国政府は日本側の対応・措置を「親中共行為」として激しく非難し、両国関係は緊張した。

 関係修復を図るべく、1964年2月、吉田茂元首相が池田勇人首相の意を受けて台湾を訪問、蒋介石総統と会談した。これを契機に「日華共同反共」などが盛り込まれた「中共対策要綱」なる文書(いわゆる吉田書簡)が極秘に交わされた。さらに、同年3月には、外務省が、台湾の国民政府との断絶は国益に反する等の「中国問題に関する見解」を発表。同年7月には大平正芳外相が訪台し、「日本は中華民国が反攻復国に成功することを非常に望んでいる」と表明した。

 1967年9月、佐藤栄作首相は、中国側の激しい批判キャンペーンにもかかわらず、台湾を訪問し、蒋介石総統と会見。同年11月には、後に総統を世襲することになる蒋経国国防部長が日本を公式訪問した。

 これまで戦後から国連常任理事国を務めた台湾は、中国と比べて国際的に認知されていた。しかし、1970年頃からベトナム戦争を背景とした中国と米国との接近、西側主要国(英仏伊加)と中国との国交正常化など、国際社会の中で中国が立場を顕示しはじめた。
 また、日本国内でも一部の親中派議員による「日中国交回復促進議員連盟」発足等の動きも見られるようになる。

 こうした国際情勢の中で、1971年の第26回国際連合総会のアルバニア決議(2758号決議)により常任理事国の権限が中国側に傾き、中国の常任理事国入りが決定され、台湾は国連を追放された。
 日本は、中国の国連加盟に賛成であるが、台湾の議席追放反対を政府方針とし、アルバニア決議に反対票を投じた。また、二重代表制決議案の共同提案国となり提出したが表決されず、佐藤首相は国内のマスコミや野党から激しく追及された。

 翌年1972年ニクソン訪中は日本に衝撃を与え、1972年9月29日田中角栄政権は、中国大陸を支配する中華人民共和国政府を「中国の唯一の合法政府」と承認し、国交を樹立した(日中国交正常化)。
 その際、日本は、日中共同声明に日華平和条約の遡及的無効を明記することに応じない代わりに、大平正芳外相が「日華平和条約は存続の意義を失い、終了した」との見解を表明。
 これに対し、中華民国外交部は即日、対日断交を宣言した(日台断交)。

台湾問題   

金門島中華民国実効統治)における「三民主義統一中国」のスローガン
対岸の廈門市中華人民共和国実効統治)にある「和平統一 一国両制」のスローガン

 台湾問題(たいわんもんだい)とは、中華民国実効統治している台湾の政治的地位および主権帰属に関する中華人民共和国と中華民国の政治問題を指す。なお、中台間では、両岸問題の呼称が用いられている。

 台湾を巡っては、両国の政党や論者により、さまざまな見解がある。主な論点を挙げると、中華民国による台湾接収の是非や、中華民国と中華人民共和国の関係、さらに現代における台湾人の基本的ルーツが原住民に有るのか、漢民族に有るのかなど、台湾の歴史、文化、政治の各方面に及んでいる。

問題の歴史的背景

 台湾史の特徴は、外来政権による統治と、住民のアイデンティティーの変遷である。

先史時代と台湾原住民、中国側の記録

 先住民であるマレーポリネシア系の台湾原住民は部族ごとに別れて国家を建設することはなく、また文字がないため歴史記録を残さなかった。
 朝が13世紀後半に、澎湖諸島に行政機関を設置したという史料があるが、台湾本島にまで領有範囲が及ぶことはなかった。
 その後、漢族朝が澎湖諸島を領有したが、やはり台湾本島にまでは領有が及ばなかった。

外来政権(スペイン人・オランダ人)と漢民族の流入

 台湾内部の歴史が記録されるのは、最初の外来政権であるヨーロッパ人の到来以降である。17世紀になるとスペイン人が台湾島北部を一時領有し、更にはオランダの東インド会社が現在の台南市を中心として台湾島南部を制圧した。

 東インド会社は福建省広東省沿岸部からの移住民を大量に募集して開墾を進めた。そのため、労働力として漢民族の男性が移入し、原住民(特に平埔族)の女性と混血していった。

鄭成功政権

 その後、「抗清復明」の旗印を掲げた鄭成功が、1661年から台湾のオランダ人勢力を攻撃した。翌1662年には最後の本拠地であるゼーランディア城も陥落させ、オランダ人は全て駆逐されていった。
 鄭成功は台湾を東都と改名して「抗清復明」の拠点とした。1662年に彼が死去した後も、息子である鄭経が「抗清復明」の基地化を進めていった。

清朝の統治と漢民族への同化政策

 鄭氏による台湾支配はその後の朝の攻撃によって短期間で終わり、台湾は清朝の支配下に入ることとなった。しかし、当初清朝は、抗清勢力を壊滅させる為に台湾島を攻撃したので台湾島の領有には消極的であった。

 だが、最終的には海賊の蔓延を防ぐという軍事上の観点から領有することを決定し、台湾に1府(台湾)3県(台南、高雄、嘉義)を設置した上で福建省の統治下に編入した。ただし、それ故に、台湾本島における清朝の統治範囲は島内全域に及ぶことはなく、半ば見捨てられた島状態となって行った。以上の経緯が台湾独立派の主張する「歴史的に中華人民共和国の台湾領有権は不当」の根拠の一つになっている。

竹富 大石隊 で検索

$
0
0


イメージ 1

www.taketomijima.jp/blog/archives/000698.html - キャッシュ
竹富町には、竹富島の世持御嶽境内にある竹富町戦没者慰霊碑にて慰霊祭が毎年とり 行われています。今年も竹富町長 ... 大石隊は高知県人を中心とした150余名の部隊で 、竹富島を守備範囲として配属されていました。 竹富島は、石垣島 ...
shimanosanpo.com > おきなわ > 島のレポート > 竹富島 - キャッシュ
1941年~1945年 □太平洋戦争 八重山では上陸戦は行われず、竹富島では他の島 のように空撃も少なかった。 ... 1994年南西諸島に沖縄守備のための第三十二軍が 組織され、竹富島には、大石喬を隊長とする大石隊は米英軍の上陸を迎え討つために ...



イメージ 2

nakanishi-satoshi.hatenablog.com/entry/.../1322539432 - キャッシュ
竹富島守備隊長であった故大石喬氏は今でも竹富島の島民から尊敬され続けている。 ... の書いた資料があったが、それには、沖縄では日本軍兵士と住民が固い信頼感で 結ばれた事例は少なく、大石隊は唯一の事例であると書かれている。
fuse.seesaa.net/article/40430511.html - キャッシュ
そのことを忘れてはいけない。 もし日本に戦争がなく、多くの土佐の先輩たちが死んでい なかったら、今の高知はもっと違ったものになっていたに違いない。 優秀な人材から 死んでいく。 それが戦争であると思う。 以下ご参考。 島民を守った反骨の部隊「大石隊



イメージ 3
plaza.rakuten.co.jp/tosanikki/diary/201111190000/ - キャッシュ
竹富島は、連合軍の上陸が結果として無かった為、直接の戦闘はありませんでしたが、 機雷解体中の爆発や機銃掃射、マラリアなどで9名の戦没者が出ており、この戦没者を 弔う為に、竹富島の島民の皆さんが建立してくれたのが、「大石隊 ...
teidonthe3.theblog.me/posts/categories/67350
大石隊の一覧。戦争中の竹富島 - 戦争が始まることになったので南洋から竹富島に 移り住むことになった父。最初はお婆さんの弟が所有していた家に住んでいた。でも、昔 のこと嫁と姑との関係からその家を出ることになった。当然、あてがない。当時、大方の 人 ...


イメージ 4


d.hatena.ne.jp/nakanishi-satoshi/20111129 - キャッシュ
... 編成された竹富島守備隊(約150名)の隊長をしていた話を聞き、そして、依光県議の 曾祖父も大石隊の一員で竹富島に駐屯していて、戦後何度か竹富島を訪れたことが あり、依光県議は高齢の曽祖父に代わって竹富島にある大石隊慰霊碑 ...
blog.goo.ne.jp/.../e/0c36068cd16006f9c1ad70f8368d5746 - キャッシュ
沖縄・石垣島へ行ってきました・・・その1 沖縄・竹富島へ行ってきました・・・その2 の 続きです。 今も続く高知の旧日本兵(大石隊)と竹富島の住民の交流 竹富島に、日本最 南端のお寺、喜宝院(きほういん)があり、 そこに蒐集館(しゅうしゅう ...


イメージ 5


www.y-mainichi.co.jp/news/8524/ - キャッシュ
竹富竹富町主催の第46回慰霊祭は23日午前10時から、竹富島小城盛の中腹にある 竹富町戦没者慰霊の塔で行われた。 ... 一方、喜宝院境内の大石隊戦没者慰霊の塔 でも、関係者や竹富小中学校生が参列して慰霊祭が行われた。竹富島 ...
jaima.net/modules/blog5/index.php?p=122 - キャッシュ
午前10時頃、竹富町出身戦歿者慰霊之塔で、竹富町主催の第54回竹富町戦没者追悼 式が行われました。 竹富町出身戦歿者 ... 竹富島では米軍と直接戦闘はなかった ものの、大石隊から9人の戦病没者がでました。 大石隊戦没者慰霊之塔 ...

琉球政府が尖閣切手

$
0
0
竹富島 貴宝館 蔵

イメージ 2





「尖閣諸島」切手

 日本への返還直前の1972年4月14日、沖縄で郵便事業を行っていた琉球郵政庁記念切手「海洋シリーズ」第3集「海鳥と海と島」を発行したが、これは尖閣諸島の南小島でアホウドリ[43]が羽根を休める風景を描いたものだという。これは琉球郵政庁が切手を発行権限があるうちに、尖閣は沖縄の島であることを主張する切手を残すためであった。

 公式には切手の題目は「海鳥」と題されているが、これは領有権を主張し始めた中華民国政府に対する配慮から、アメリカから発行中止命令[44]を受けないためのカモフラージュであった。1971年に琉球大学の調査によりクロアシアホウドリとアホウドリが尖閣諸島に生息することが確認されたことから、琉球郵政庁の切手発行担当者は原画担当者の安次富長昭にアホウドリを描くように指示、調査団の説明からイメージを膨らませたという。このようにして「琉球」の名で尖閣諸島切手が発行された[45][46][47]

 また、担当者は第1集の「夕陽と島」でも魚釣島に沈む夕陽にしようと目論み、写真撮影のため原画技官を2週間に渡り出張させたが、悪天候のため尖閣諸島にたどり着けず、やむなく慶良間の海と島に変更されたという[48]


イメージ 1
竹富島 貴宝館 蔵

琉球郵政庁

   
琉球郵政庁が併設されていた那覇東郵便局(2階と3階が郵政庁庁舎であった)

 琉球郵政庁(りゅうきゅうゆうせいちょう)は、復帰前の沖縄県において郵便事業及び電気通信行政を取扱っていた行政機関。ここでは、沖縄本島の郵便事情を中心に述べる。

概要

沖縄戦により郵政事業は壊滅状態になったので、最初に郵政組織の再建からしなければならなかった。
1945年8月20日に発足した沖縄諮詢会に逓信部が設けられ、翌9月には郵便の取り扱いが始まるなど、徐々に再建されていった。
地上戦がなかった他の地域でも、既存の郵便局を各支庁の直営にして運営を始めていった(ただし、簡易生命保険事業などの郵便以外の諸事業を停止した)。
その後、各群島ごとに分立していた郵政組織を統合する機運が高まり、1950年4月1日に統一郵政組織「琉球郵政庁」が設置された。
そして琉球臨時中央政府の発足に伴い、琉球郵政庁は内部部局の「郵政局」となり、続いて琉球政府郵政局となった。
ところが1953年になって、郵政局は工務局・運輸局と統合され「工務交通局」になった。その結果、郵政事業の経営に支障を来たしたため、1960年に郵政特別会計が発足し、1961年には建設運輸局(後に通商産業局)の外局の郵政庁が設置された。
1960年代半ばまで郵政事業は黒字であったが、1968年以降は赤字に転落した(2003年まで、郵政事業庁琉球郵政事業未決済金という、琉球郵政庁時代の赤字を繰越欠損金として毎年計上されていた)。
赤字に転落した原因は、
  • 物価の上昇に合わせて料金の改定を図らなかったこと
  • 切手収入に依存し、切手の発行数量を大幅に増加させたことで郵趣家の不信を買ったこと
  • 労働組合が政治運動にのめりこみ、サービスの低下を招いたこと
などが挙げられる。
郵政三事業のうち、簡易生命保険事業は復帰するまで実施されることはなかった。また、琉球郵政庁には特定郵便局は存在しなかった。

沿革

1955年頃の那覇中央郵便局内
  • 1945年8月20日 沖縄諮詢会発足(逓信部長に平田嗣一が就任)。
  • 1945年9月4日 沖縄諸島内で肉親の安否を問い合わせる郵便物の無料取り扱いを始める。
  • 1946年7月1日 沖縄諸島内の郵便料金有料化。
  • 1946年9月10日 沖縄諸島と本土間の郵便再開。
  • 1947年5月15日 国際郵便再開。
  • 1948年7月1日 初の正刷切手が発売される。
  • 1950年4月1日 全域を管轄する「琉球郵政庁」が発足。
  • 1951年8月13日 琉球臨時中央政府郵政局となる。
  • 1952年4月1日 琉球政府郵政局となる。
  • 1953年4月1日 琉球政府の機構改革に伴い、工務交通局の一部門となる。
  • 1958年9月16日 法定通貨が米ドルになったことに伴い、切手もドル表示になる。
  • 1960年7月1日 郵政特別会計制度が設けられる。
  • 1960年11月1日 切手に英語名の「Ryukyus」が併記されるようになる。
  • 1961年8月1日 琉球政府の機構改革に伴い、建設運輸局の外局「郵政庁」となる。
  • 1965年8月1日 琉球政府の機構改革に伴い、通商産業局の外局「郵政庁」となる。
www.jiyuushikan.org/jugyo/jugyo93.html - キャッシュ

教科書が教えない領土問題

幻の尖閣切手
琉球政府郵政庁職員たちの気概の物語


■ 不思議な切手

切手に注目してください。
  1. 何が描かれていますか? 疑問に思うことはありますか?
  2. どんな場所ですか?
  3. 鳥の名前は何だと思いますか?


 この切手は、1972年4月14日、祖国復帰直前の沖縄で発行された海洋シリーズ第3集の『海と海鳥と島』という切手です。切手にはこの島がどこなのか、海鳥の名前は何なのかまったく示されていません。どうしてでしょうか。


 この島がどこなのか長年の謎でしたが、沖縄県石垣市の尖閣諸島を研究する国吉真古(まさふる)氏の聞き取り調査によって、尖閣諸島と判明しました。
 実をいうと、描かれている鳥は「アホウドリ」です。アホウドリは伊豆諸島の鳥島と沖縄の尖閣諸島でのみ繁殖が確認されている鳥です。
 

 沖縄の海でアホウドリが生息する島といえば、尖閣諸島以外にあり得ません。この琉球切手は、わが国固有の領土である尖閣諸島をテーマにした唯一の切手なのです。
切手の発行は国家の意思を表すことがあります。青く美しい海に浮かぶ尖閣諸島。その南小島の切り立った断崖でアホウドリが飛翔し、戯れている姿を描いた「尖閣切手」。この切手は、尖閣諸島が日本の沖縄に属していることを明確に主張しています。







 尖閣切手は、沖縄の祖国復帰(5月15日)の目前、昭和47年(1972年)4月14日に発行されました。琉球政府郵政庁の職員たちが、この時期に発行に踏み切った理由は何だったのでしょうか。

 この切手が日の目を見るまでには、職員たちの知られざる苦労とそれをはねのける強い意志が存在したのです。

 わが国の領土を守らんとする揺るぎない決心で極秘のプロジェクトを遂行した職員たちの気概の物語を紹介しましょう。

◆◆◆

 昭和20年(1945年)、大東亜戦争に敗れた日本は連合国(GHQ)に占領されました。苦難の占領期を終え、昭和27年(1952年)4月28日にわが国は独立を回復しますが、沖縄県はアメリカの直接統治下に置かれました。当然、尖閣諸島も沖縄の1部としてアメリカの施政権下にあります。
 沖縄の郵政事業は昭和23年(1948年)に始まります。はじめは無料だった郵便配達が有料制になり、「琉球郵便切手」が生まれました。沖縄の名だたる画家たちが原画を描き、南国風のデザインと鮮やかな色彩で切手コレクターの間で人気を博します。「沖縄美術の珠玉」と称されたほどです。日本への復帰で琉球郵便が廃止になるまで、261種を発行しました。

■ 台湾・中国、突如の領有権主張

 1960年代、折から石油資源の枯渇が危惧されるようになりました。そこで、世界各地で新たな油田を発見しようと調査が進められていました。
 昭和44年(1969年)のことです。国際連合のアジア極東経済委員会による海洋調査で、尖閣諸島の周辺にはイラクの埋蔵量に匹敵するほどの大量の石油が存在すると報告されたのです。

 尖閣諸島は、明治28年(1895年)1月14日に正式にわが国の領土に編入されました。明治18年(1885年)以降、日本政府が綿密な現地調査を行なった結果、無人島であり、かつ、清国(中国)の支配が及んでいないことを確認した上での閣議決定です。
 尖閣諸島がわが国固有の領土であることは、歴史的にも国際法上も疑いようがありません。
 ところが、尖閣諸島周辺に大量の石油が埋蔵されていることが判明すると、海域を接する台湾の国民党政府と中国は、突如、領有権を主張しはじめたのです。
 明けて、昭和45年(1970年)、尖閣諸島をめぐる状況はますます緊迫していきました。200以上もの市町村や経済団体によって「尖閣を守る会」が組織され、大規模な運動がはじまりました。

 これを受けて、琉球政府は尖閣諸島の「領土宣言」を発し、琉球立法院も「尖閣防衛」の決議をしています。琉球政府通産局の砂川局長は、琉球政府が権限を持っている間に、尖閣周辺の石油鉱業権を許可したいと、「尖閣開発KK」の創設に奔走しました。
 一方、沖縄返還にむけての日米協議は、尖閣諸島の帰属をめぐって紛糾しました。なぜなら、米国政府が尖閣を返還協定内に含めることを渋ったからです。日本側は米国の態度に怒りました。沖縄開発庁の山中定則長官らが尽力して、最終的には無事に返還されることになりました。

 そして、ついに昭和46年(1971年)6月、「沖縄返還協定」が調印の運びとなり、翌年5月に沖縄県が祖国に復帰することが決定しました。ところが、この協定調印を挟んで、4月には台湾の国民政府が、12月には中国が尖閣諸島の領有権を正式に表明したのです

■ 尖閣切手を発行せよ!

 中・台の理不尽な領有権主張は、国民の怒りを招きました。なかでも沖縄県民の危機感は尋常ではありません。琉球切手の発行を職務とする琉球郵政庁の職員たちも思いは同様です。

 「琉球郵政庁が切手発行の権能を有している間に、尖閣諸島を題材にした切手を発行したい」

 切手の発行によって、尖閣諸島がまぎれもなく日本の領土であるということを刻印したいとの強い思いが湧き上がってきたのです。

 そこで、琉球郵政庁は、尖閣諸島の1つである魚釣島の「地図切手」の発行を計画します。原画を滞りなく作成し、大蔵省(現・財務省)印刷局に切手の印刷を依頼しました。印刷も仕上がり、あとは琉球郵政庁に向けて発送を待つばかりという時、その地図切手の存在が外務省の知るところとなりました。すると、何と外務省は「中国や台湾などを刺激する」として、発行禁止を強く要求してきたのです。

 この時期、中・台は不当な領有権主張をますます強めており、日米両政府は両国を刺激しないように神経質になっていました。

 「こんな時に尖閣諸島を描いた切手などとてもじゃないが発行できない。これで外交がこじれてしまったら一大事だ」ということでしょう。
沖縄はまだ返還されておらず、米国統治下にあったのですから、琉球政府に対する外務省の要求は米国への内政干渉にあたります。しかし、順調な沖縄返還を望んでいた米国政府が目くじらを立てなかったため、琉球政府は切手の発行を断念せざるを得ませんでした。
 これに切歯扼腕したのが、郵券課長の浜元暁男氏でした。「尖閣をテーマとした切手発行を、なぜ日本政府は嫌がるのか。長い目で見るなら、ここで尖閣の領有権を明確にしておく方が得策ではないか!」


海軍予科練出身で剛胆な性格だった浜元課長は、「それならば、せめて尖閣を舞台にした『海洋シリーズ切手』を発行したい」と思いました。
折しも復帰3年後の昭和50年(1975年)に「沖縄国際海洋博覧会」の開催が決定されていました。この海洋博記念を名目にして海洋シリーズを企画し、これに尖閣諸島を盛り込めば、復帰直前の混乱の中で当局のチェックをごまかせるのではないか、と考えたのです。

「日本政府が尖閣切手を認めないというなら、巧妙にカムフラージュして、推し進めるだけだ。政府は『琉球政府が勝手に発行した』とすればよい」と浜元課長は強気です。こうして、郵政庁首脳幹部だけの「極秘プロジェクト」による尖閣切手の発行計画がスタートしました。

 ただし、万一、情報が洩れて日本政府の知ることになったら、すべては水泡に帰してしまいます。プロジェクトの遂行には、細心の注意が必要でした。
海洋シリーズ切手は、次の3つで構成されることになりました。
  • 第1集:「島と海」(昭和47年3月21日発行)
  • 第2集:「珊瑚礁」(同年3月30日発行)
  • 第3集:「海と海鳥と島」(同年4月14日発行)
第1集「島と海」は、実は「魚釣島と尖閣の海」の図柄を計画しました。
「海上にまっすぐ突き出た岩石の島だけでは、どこの島なのか誰も分からない。何か言われたら、最後まで知らぬ存ぜぬで押し通すぞ」と浜元課長。
 切手の原画を描くためには写真が必要です。そこで、峻険な岸壁が鋸立する魚釣島の雄姿を撮影するために、2人の部下を2週間の出張に出しました。
 しかし、天候不順で部下たちは尖閣諸島までたどり着けず、写真を撮ることができませんでした。この秘策は失敗、やむをえず第1集の題材は「慶良間諸島の海と島」に変更となりました。

 切手の図案を思案しているところに大ニュースが飛び込んできました。昭和46年(1971年)、琉球大学調査団が、国指定の特別天然記念物で絶滅危惧種のアホウドリが尖閣諸島の南小島で生息しているのを発見したのです。この種は地球上で、伊豆諸島の鳥島(東京都)にしか生息していないとされていたので、沖縄中が沸きました。
 そこで、浜元課長はアホウドリを描いた切手を発行することで間接的に尖閣諸島が沖縄に属していることを主張できると考えました。


浜元課長は第3集の原画を画家の安次富(あしとみ)長昭氏(現・琉球大名誉教授)に依頼します。
そして、描く島は「尖閣諸島の南小島」、描く鳥は「アホウドリなり」と注文をつけました。

しかし、珍しい鳥なので安次富画伯は実物を見たことがありません。そこで、郵政庁長だった渡嘉敷真球(しんきゅう)氏がじきじきにアトリエまでアホウドリの剥製を届けにきます。さらに、アホウドリを発見した琉球大調査団団長の池原貞雄教授からこの時に撮った写真を借り、調査団メンバーの新納(にいろ)義馬教授から尖閣諸島の情景を詳細に聞き取りました。
尖閣諸島の紺青の海、波洗う峻険な南小島の断崖、その上空を舞い、岩場で戯れるアホウドリ。安次富画伯は資料を元に描いていきます。完成した「海と海鳥と島」、すなわち「尖閣の海とアホウドリと南小島」の原画は、目が覚めるような鮮やかさで素晴らしい出来映えでした。

 第3集の極秘プロジェクトは着々と進展しました。切手審議会を問題なくパスし、大蔵省印刷局へ送付、日本政府からのクレームもなく250万部が印刷されました。尖閣切手は、誰もが1般的な「海と鳥と島」が描かれていると疑いませんでした。浜元課長の作戦は功を奏しました。そして、4月14日、尖閣切手は予定通り発行されました。それは沖縄の祖国復帰、すなわち琉球郵政庁消滅の1ヶ月前のことでした。
尖閣諸島の研究者・国吉真古(まさふる)氏は次のように述べています。

 「現政府の尖閣への対応は期待外れ。当時の職員は領土に対する強い思いがあったはずだ。多くの人々に認識を深めてほしい」
身の危険も顧みず、尖閣諸島を守るために極秘プロジェクトを成功させた浜元氏をはじめとする琉球郵政庁の職員たち。その愛国心・愛郷心の確かさに心打たれます。南国風の色鮮やかな尖閣切手は、尖閣諸島の日本領有を主張し続けているのです。

〈参考文献〉

  1. ◆尖閣諸島文献資料編纂会
    『尖閣研究ー高良学術調査団資料集上下』(データム・レキオス)2007年
  2. ◆読売新聞2012年5月11日
    「『尖閣』秘した琉球切手」
  3. ◆琉球新報 2010年11月1日
    論壇「尖閣諸島の琉球政府切手 日本政府の〝干渉〟で幻に」
nippon-end.jugem.jp/?eid=4019 - キャッシュ
2016年2月22日 - 参考:幻の尖閣切手発行顛末~海洋シリーズ第三集「海と海鳥と島」~國吉真古) 実を いうと、描かれている鳥は「アホウドリ」です。アホウドリは伊豆諸島の鳥島と沖縄の尖閣諸島でのみ繁殖が確認されている鳥です。 沖縄の海でアホウドリが ...
www.asaho.com/jpn/bkno/2010/1115.html - キャッシュ
尖閣切手とビデオ 2010年11月15日. 切手業者から米軍統治下の琉球郵便切手を 入手した。1972年4月14日発行の5セント切手。沖縄返還の直前、表向きは海洋 シリーズ第3集『海鳥と海と島』として発行されたものである。 図柄には9羽のアホウ鳥が  ...

琉球政府は、1970年9月17日、「尖閣列島の領土権について」という声明を発表した

$
0
0
そのような中で、包括的に尖閣諸島の日本帰属論を練り上げたのは琉球政府であった。琉球政府は、1970年9月17日、「尖閣列島の領土権について」という声明を発表した。


[文書名] 尖閣列島に関する琉球立法院決議および琉球政府声明

[年月日] 1970年8月31日

[出典] 日本外交主要文書・年表(2),984-987頁.琉球立法院事務局「会議録」.「季刊沖縄」第56号,180-2頁.
[備考] 琉球政府声明は1970年9月17日

[全文]

1.米政府あて決議
尖閣列島の領土権防衛に関する要請決議
 尖閣列島の石油資源が最近とみに世界の注目をあび,県民がその開発に大きな期待をよせているやさき,中華民国政府がアメリカ合衆国のガルフ社に対し,鉱業権を与え,さらに,尖閣列島の領有権までも主張しているとの報道に県民はおどろいている。
 元来,尖閣列島は,八重山石垣市字登野城の行政区域に属しており,戦前,同市在住の古賀商店が伐木事業及び漁業を経営していた島であって,同島の領土権について疑問の余地はない。
 よって,琉球政府立法院は,中華民国の誤った主張に抗議し,その主張を止めさせる措置を早急にとってもらうよう院議をもって要請する。
 右決議する。
  一九七〇年八月三十一日
             琉球政府立法院
 アメリカ合衆国大統領
 アメリカ合衆国国務長官     あて
 琉球列島高等弁務官


2.日本政府あて決議
尖閣列島の領土権防衛に関する要請決議
 琉球政府立法院は,一九七〇年八月三十一日別紙のとおり「尖閣列島の領土権防衛に関する要請決議」を採択した。
 本土政府は,右決議に表明された沖繩県民の要請が実現されるよう,アメリカ合衆国及び中華民国に対し強力に折衝を行なうよう強く要請する。
 右決議する。
  一九七〇年八月三十一日
             琉球政府立法院
  内閣総理大臣
  外務大臣         あて
  総理府総務長官


3.琉球政府声明,尖閣列島の領土権について 1970年9月17日 「季刊沖縄」第56号,180-2頁.
 琉球政府立法院は,尖閣列島が我が国固有の国土であることから,他国のこれが侵犯を容認することは,日本国民である県民として忍びず,ここに「尖閣列島の領土権防衛に関する決議」を行ないました。
 最近,尖閣列島の海中油田が話題を呼び世界の石油業者が同島を注目するようになりましたことは御承知のとおりであります。

 報道によりますと台湾の国民政府がパーシフィックガルフ{ーにママとルビ}社に鉱業権を与え,大陸ダナ条約に基づき,尖閣列島は国民政府の領有であると主張しているとのことであります。このことは明らかに領土権の侵害を意図するものであり,看過できない由々しい問題であると思います。

 琉球列島の範囲に関しては,アメリカ合衆国の統治基本法たる琉球列島の管理に関する行政命令前文は,「合衆国は,対日平和条約の第三条によって領水を含む琉球列島(この命令において,「琉球列島」とは,平和条約の同条による合衆国のすべての権利及び利益を日本国に譲渡した奄美群島を除く北緯二十九度以南の南西諸島を意味する。)」と規定してあります。即ち北緯二十八度東経百二十四度四十分の点を起点として北緯二十四度東経百二十二度北緯二十四度東経百三十三度北緯二十七度東経百三十一度五十分北緯二十七度東経百二十八度十八分北緯二十八度東経百二十八度十八分の点を経て起点に至る(米国民政府布告第二十七号)と規定し,琉球列島米国民政府及び琉球政府の管轄区域を前述の地理的境界内の諸島,小島,環礁及び岩礁並びに領水に指定すると規定されている。

 因みに,尖閣列島は,歴史的には十四世紀の後半ごろにはその存在を知られす{前2文字ママとルビ}なわち,一三七二年から一八六六年の約五百年間,琉球の中山王朝と中国とは朝貢,冊封の関係にあったため,朝貢船,冊封船が中国大陸の福州と那覇との間をしばしば往来し,尖閣列島はこれらの船舶の航路上のほぼ中間に位置していた。

 しかも列島中の魚釣島及びその附近に点在する小島,岩島は,尖岩突起し,航路の目標としては,絶好のものでありました。
 このように中山伝信録,琉球国志録などのような歴代冊封使録,指南広義付図,中山世鑑などに尖閣列島の島々の名があらわれています。
 当時には島々の名称は,釣魚台,黄尾嶼,赤尾嶼といった名称であらわされ,沖縄の先島では,中国名の釣魚台,黄尾嶼をそれぞれユクン,クバシマ,赤尾礁{礁にママとルビ}を久米島に近いところから久米赤島と呼ばれてきました。

 その他久場島を,チャウス島,魚釣島を和平山とも呼んできました。尖閣列島は,種々の歴史上の文献に記され,また,多くのひとびとによってさまざまに呼称されてきたが,同列島は明治二十八年に至るまで,いずれの国家にも属さない領土としていいかえれば国際法上の無主地であったのであります。

 十四世紀以来尖閣列島について言及してきた琉球及び中国側の文献のいずれも尖閣列島が自国の領土であることを表明したものはありません。これらの文献はすべて航路上の目標として,たんに航海日誌や航路図においてかあるいは旅情をたたえる漢詩の中に便宜上に尖閣列島の島嶼の名をあげているにすぎません。本土の文献として林子平の「三国通覧図説」があります。これには,釣魚台,黄尾嶼,赤尾嶼を中国領であるかの如く扱っています。しかし,三国通覧図説の依拠した原典は,中山伝信録であることは林子平によって明らかにされています。

 かれはこの伝信録中の琉球三六島の図と航海図を合作して,三国通覧図説を作成いたしました。このさい三六島の図に琉球領として記載されていない釣魚台,黄尾嶼などを機械的に中国領として色分しています。しかし伝信録の航海図からはこれらの島々が中国領であることを示すいかなる証拠も見出しえないのであります。……航海図もあくまでも航路の便宜のために作成されたものであり領土を意識して書かれたものではありません。

 明治五年,琉球王国は琉球藩となり,明治七年内務省の直轄となりました。
 明治十二年県政が施行され,明治十四年に刊行,同十六年に改訂された内務省地理
局編纂の大日本府県分割図には,尖閣列島が,島嶼の名称を付さないままあらわれ,尖閣列島は明治十年代の前半までは無人島であったが,十年代の後半十七年頃から古賀辰四郎氏が,魚釣島,久場島などを中心にアホウ鳥の羽毛,綿毛,ベッ甲,貝類などの採取業を始めるようになったのであります。
 こうした事態の推移に対応するため沖縄県知事は,明治十八年九月二十二日,はじめて内務卿に国標建設を上申するとともに,出雲丸による実地踏査を届け出ています。

 さらに,一八九三年(明治二十六年)十一月,沖縄県知事よりこれまでと同様の理由をもって同県の所轄方と標杭の建設を内務及び外務大臣に上申してきたため,一八九四年(明治二十七年)十二月二十七日内務大臣より閣議提出方について外務大臣に協議したところ,外務大臣も異議がなかった。
 そこで一八九五年(明治二十八年)一月十四日閣議は正式に,八重山群島の北西にある魚釣島,久場島を同県の所属と認め,沖縄県知事の内申通り同島に所轄標杭を建設せしめることを決定し,その旨を同月二十一日県知事に指令しております。

 さらに,この閣議決定に基づいて,明治二十九年四月一日,勅令十三号を沖縄県に施行されるのを機会に,同列島に対する国内法上の編入措置が行なわれております。沖縄県知事は,勅令十三号の「八重山諸島」に同列島が含まれるものと解釈して,同列島を地方行政区分上,八重山郡に編入させる措置をとったのであります。沖縄県知事によってなされた同列島の八重山郡への編入措置は,たんなる行政区分上の編入にとどまらず,同時にこれによって国内法上の領土編入措置がとられたことになったのであります。
 次に編入された尖閣列島の範囲でありますが,明治二十八年一月の閣議決定は,魚釣島と久場島に言及しただけて,尖閣列島は,この島の外に南小島及び北小島と,沖の北岩,沖の南岩ならびに飛瀬と称する岩礁,それに久米赤島からなっておりますが,閣議決定はこれらの小諸島及び岩島について全くふれていません。しかし,久米赤島を除く他の小諸島及び岩島は,国際法上当然わが国の領有意思が及んでおります。
 久米赤島の場合は,もっとも近い久場島からでも約五十マイル離れていますので,さきに述べた小諸島及び岩島とは別個に領有意思を表明する必要がありました。前述の閣議決定が,魚釣島,久場島にふれながら,なぜ久米赤島に言及しなかったかは,明らかではありませんが明治十八年及び二十三年の沖縄県知事の上申は,魚釣島及び久場島とともにつねに久米赤島にも触れており,また,明治二十八年の閣議において原案のとおり決定をみた閣議提出案には県知事の上申通りに沖縄県の所轄と認むるとして,久米赤島をとくに除外する理由は何も述べていません。

 魚釣島,久場島の編入経緯に関する公文書記録をまとめている日本外交文書においても,久米赤島の編入は,当然に編入されたものとして扱われております。尖閣列島はこのような経緯を辿っております。

 そもそも,尖閣列島は八重山石垣市字大川在住の古賀商店が,自己の所有地として戦争直前まで伐木事業と漁業を営み行政区域も石垣市に属していることは,いささかの疑問の余地もありません。具体的に説明いたしますと,尖閣列島中の南小島の地番は,石垣市字登野城南小島二三九〇番地で地積は三二町七反三畝一歩,所有者は古賀善次,同じく古賀善次所有の字登野城北小島二三九一番地の二六町一反歩同じく字登野城魚釣島二三九二番地の三六七町二反三畝同じく登野城久場島二三九三番地の八八町一反三畝一〇歩それから官有地として字登野城大正島二三九四番地の四町一反七畝四歩以上が公簿に記載されているのであります。

 このように歴然たる事実を無視して国府が尖閣列島の領有を主張することは,沖縄の現在のような地位に乗じて日本の領土権を略主しようとたくらむものであると断ぜざるを得ません。

 残念ながら琉球政府には外交の権限がなくどうしても日本政府並びに米国政府から中華民国と交渉をもってもらう外ありません。よって両政府あての要請決議を行った次第であります。
 わが国の国土を保全する立場から,何卒日本政府におかれても,アメリカ合衆国政府及び中華民国政府と強力な折衝を行なうようお願いいたします。


イメージ 1

竹富島 貴宝館 蔵

イメージ 2
竹富島 貴宝館 蔵

波照間 燐

$
0
0

イメージ 1




イメージ 2

グアノ

   
グアノ
ナウルのグアノ採掘跡地
グアノ (guano) とは、珊瑚礁に、海鳥死骸・エサのの殻などが長期間(数千年から数万年)堆積して化石化したものであり、肥料の資源として利用される。主要な産地は南米チリペルーエクアドル)やオセアニア諸国(ナウル等)である。グアノの語源はケチュア語の「糞」でスペイン語経由で英語に入った[1][2]

種類

グアノには「窒素質グアノ」と「燐酸質グアノ」の2種類がある。前者は降雨量・湿度の低い乾燥地帯に形成されたもので、多くの窒素鉱物を含有する。後者は熱帯亜熱帯など比較的降雨量・湿度の高い地域に形成され、長年の降雨によって窒素分が流出してリン酸分が濃縮されたものである。
いずれも近代化学工業(化学肥料)には欠かせぬものであり、領有する島嶼部に多量のグアノを有したペルーでは莫大な量が採掘されてヨーロッパに輸出された。この利益は一時的にペルーに好景気と社会インフラの発展をもたらしたが、資源の枯渇により経済の破綻を招いた。なお世界の窒素肥料の原料はその後チリ硝石、さらには20世紀初頭のドイツにおいて開発された化学的窒素固定へと変遷する。
燐酸質グアノはリン鉱石が発見されるまで、最も主要なリン資源であった。南洋の島々に多く、資源としては大量に存在するものではないため、かつての採掘地の多くはすでに掘り尽くされ、枯渇している。

歴史

かつては、グアノをめぐって戦争が起こった事(グアノ戦争、チリ対ボリビアの太平洋戦争)があった。

バット・グアノ

海鳥由来のグアノとは別に、洞窟内に生息するコウモリ・体毛、洞窟内の生物の死骸が堆積して化石化したものをバット・グアノと呼ぶ。量は大してないため観賞植物や自家菜園用の肥料として販売されている。

産出地(過去の産出地も含む)






波照間島の燐鉱採掘|波照間島コラムちゃんぷる~ - やいまねっと

jaima.net/modules/hateruma/index.php?content_id=3 - キャッシュ
燐鉱の島. 日本最南端の有人島で知られる波照間島だが、八重山では唯一、鉱石を 採掘した島でもある、鉱石の採掘は戦前の一時期、島の経済を潤し、地域活性化に 一役買った。 島の人たちは、「リンコウ」と言えば「燐鉱」を想起する。島の北部にある、 ...




採掘が本格化

 採掘許可は1933年(昭和8)11月に恒藤規隆氏が受け、1935年(昭和10)6月には塩谷栄二氏が受けて、両者による燐鉱採掘が始まった、採掘面積は塩谷氏の場合、16万坪と広大である。
 同氏に関しては試掘調査後の1934年(昭和9)4月以降、朝日化学肥料株式会社との間で採掘協定が締結され、朝日化学肥料(株)が採掘に乗り出すことになった。
 同社の佐古田政太郎社長は、1934年(同9)7月9日に波照間島を訪れ、採掘の状況を視察している。朝日化学肥料(株)と同様に採掘に着手することになった恒藤氏は、燐鉱の本格的な採掘に際し次のように語る。
 「波照間の燐鉱はとてもいい、含燐歩合からいふと質のよい硬度燐と中度燐、下等燐の3段に分かれているが、燐層も相当豊富らしく波照間の全面積30万坪の間に点々と埋蔵されている。今後、何年分の燐があるか、これからまだ掘り下げて調査してみなければ分からないが、質のいい燐が可なりあるといふことだけは言へる」と太鼓判を押す。

波照間島コラムちゃんぷる〜「波照間島の燐鉱採掘〜景気を浮揚させ住民生活を潤す〜」
燐鉱石を積み出すための桟橋
波照間島コラムちゃんぷる〜「波照間島の燐鉱採掘〜景気を浮揚させ住民生活を潤す〜」
採掘現場に建つ櫓



時代は大きく戻ります。波照間では戦前の一時期、2箇所で燐の採掘が行われていました。
東北部の鉱山は、港から製糖工場のほうに抜ける道の途中、一周道路との交差点の辺りにあったそうです。西北部の鉱山の跡は今でも見ることができます。「ぶりぶち公園」の入り口にある池に気付く人は結構多いでしょうが、その池の水が湧き出している崖を注意して見ている人は少ないのではないでしょうか。そこには半分以上を石積みで隠しているものの、ぽっかりと開いた坑道の入り口があります。
波照間で燐鉱山が発見されたのは1921年頃で、1933年から本格的な採掘事業が始まりました。島の東北部と西北部で2つの会社が採掘を行い、肥料や薬品製造の原料として尼崎方面に出荷されたそうです。採掘は1939年頃には最盛期を迎え、島内外から集まった200名ほどの作業員が働いていました。そして島はにわか景気に沸いた、といいます。
しかし、太平洋戦争が始まって輸送手段が無くなると、採掘は中止に追い込まれ、1943年には採掘会社は廃業。採掘された鉱石の半分は放置されたまま会社は引き揚げてしまいました。残った鉱石は島の道路に砂利として敷かれ、雨が降る度、その養分が土壌に溶け出し、農地の土壌を豊かにしたそうです。
八重山に行くと、よく、波照間産の黒糖が八重山で一番美味しいと聞きますが、訳はサトウキビが育つ島の土壌にあるといいます。波照間は島全体の土壌に燐の成分が含まれているため、養分が豊富であるというのです。それはおそらくこのことを指していたのだと思われます。
ぶりぶち公園の鉱山跡の湧水は島の簡易水道の水源としても使われていたようです。現在では波照間製糖の管轄下に置かれているということで、製糖工場の作業に使われているようです。
このように、「ぶりぶち公園」一帯は4000年の昔から現在に至るまで、島の歴史に深く係わり続けている地域なのです。

波照間 燐の画像

-Yahoo!検索(画像)
20099.jpg?14635979395ba14bca.jpg%E9%88%B4.jpg1ad3e262.jpg
www.city.ishigaki.okinawa.jp/100000/100500/.../detail.php?... - キャッシュ
波照間鑛發見:紙面画像. 1921/03/01 八重山新報 第4面 紙面画像 現代仮名遣い テキスト 旧仮名遣いテキスト. 波照間鑛發見 紙面画像. 波照間に燐鉱発見八重山 新報 大正十年三月一日 本郡波照間島字西留に燐鉱あるを発見し、東京市芝区内田眞  ...
画像
.
ameotoko.cocolog-nifty.com/note/2008/07/1_fed7.html
鉱石採掘事業の詳細とレールに関する写真は「八重山歴史読本」(南山舎)の「波照間島の燐鉱採掘」か、そのほぼ全文を掲載していると思われる以下のURLの記事を参照し ていただくとして、私の興味の焦点は、やはり当然の事ながら、この" ...



      ■島が一番賑わった頃
波照間島で島が一番賑わったのは、1935-1945年ごろである。燐鉱石の採掘の採掘がはじまり、カツオ漁が盛んになったころが一番島が豊であったと言われている。
そのころは、降雨量も何故だか多く、豊作に恵まれ、農産物も豊だったという。


■燐鉱石の採掘
1933年から燐鉱の採掘が栄えた。この頃、島は燐採掘でにぎわい、宮古、本島などから多くの人が出稼ぎ労働者として来島したという。
今まで、島の人たちは、農業や近隣の漁業でしか収入を得ていなかった。しかし、同時期に栄えたカツオ漁とともに、燐鉱の採掘業のおかげで、島は大変豊かになった。
島の若者たちは、夏はカツオ漁。カツオ漁の終わった冬は燐鉱採掘場で働いた。最盛期には作業員は200名ほどいた。
また、波照間島の人口は急増し、1931年に1283人であったのに対し、燐鉱採掘が最盛期を迎えた1939年には1422人を超えている。
何故、波照間島で燐鉱がとれたのか。それは、波照間島は鳥が多く、長い年月をかけ、鳥の糞尿が石灰岩石に堆積し変化して燐鉱石になったものといわれている。
燐鉱石の採掘は波照間島の北部と、北西部の2ヶ所で行われていた。


しかし、1941年。太平洋戦争が始まると、沖合には米軍の艦隊や潜水艦が現れるようになると、燐鉱の島外への搬送が難しくなった。掘り出された燐鉱が積み上げられたままになり、1943年採掘場は廃止となった。積み残された燐鉱石は、道路を補修するのに使われていたという。

[転載]尖閣諸島に関する資料

$
0
0
櫻井よし子が語る歴史を学ぶ重要性






イメージ



イメージ



尖閣諸島に関する資料の委託調査報告書


平成27年度報告書に掲載された資料例

  1. 「[写]魚釣、久場、久米赤島回航報告書」 1885年11月2日
  2. 「[写]魚釣島外二島巡視取調概略」 1885年11月4日
  3. 「南航日記」内務大臣 山縣有朋 著 1886年5月
  4. 「甲第一号 無人島久場島魚釣島之義ニ付伺」1890年1月13日
  5. 『大東島取調書』所収「大東島支配方ノ件」 [沖縄県庁編] [1903年]
  6. 「漂流者清国より還る」 『九州日日新聞』1893年9月20日付
  7. 「野田山隈諸氏の一行」 『九州日日新聞』1893年10月24日付
  8. 『熊本県民井澤弥喜太外二名清国ヘ漂流シタル節救助シタル同国地方官ヘ謝意伝達之件 明治二十六年』所収「別紙 [右照覆]」1894年1月13日
  9. 『沖縄県下八重山群島ノ北西ニ位スル久場島魚釣島へ標杭ヲ建設ス』所収「秘別第一三三号 標杭建設ニ関スル件」 1895年1月12日
  10. [閣議決定 指令案 標杭建設ニ関スル件請議ノ通]内閣作成 1895年1月14日、1月21日
  11. 『勅令第百六十九号』 葉煙草専売法ヲ施行セサル地方指定 1897年5月31日
  12. 『予と燐鉱の探険』恒藤規隆著 1936年
  13. 『沖縄県治要覧』 沖縄県編 1916年4月
  14. 「尖閣列島の珊ゴ漁業 古賀商店へ許可」 1935年7月3日付 先島朝日新聞
  15. 『琉球全図』赤嶺康成/編 1958年4月
  16. 『鹿児島県水産試験場紀要第2集-東シナ海におけるサバはね釣り船の操業状況-』 鹿児島県水産試験場編 1960年9月
  17. 『琉球水産研究所 事業報告書 1964/1965年度』 琉球水産研究所編 [1966年]
  18. 『尖閣列島写真集』 琉球政府出入管理庁/撮影 1970年7月
  19. 『復命書』 比嘉健次著(出入管理庁警備課長) 1970年7月24日

1.「[写]魚釣、久場、久米赤島回航報告書」 1885年11月2日

所蔵機関:国立公文書館
尖閣諸島の領土編入(1895年)の10年前、沖縄県が実施した現地調査の際に提出された、沖縄県が雇用した日本郵船会社の出雲丸船長である林鶴松による尖閣諸島の回航報告書(写)。同諸島はこれまで外国船にも度々観測され、各水路誌にも詳述されているとし、水路誌中の尖閣諸島における記述を紹介しながら、実地調査において同船長が確認した事項を併せて記載している。
「[写]魚釣、久場、久米赤島回航報告書」 1885年11月2日

2.「[写]魚釣島外二島巡視取調概略」 1885年11月4日

所蔵機関:国立公文書館
1885年の沖縄県による尖閣諸島現地調査の際に報告された、沖縄県五等属(県職員)石澤兵吾による尖閣諸島現地調査復命書(写)。石澤以下調査団6名は魚釣島に上陸、同島の地勢及び開拓の可否(島の植生・生息する動物等)を調べ、特に島の地質とアホウドリの群生する様子を詳述し、岩石数点とアホウドリ数十羽(附卵数百個)を沖縄県庁に持ち帰った。
魚釣島を出帆後、久場島を艦上より望見、大正島(久米赤島)は暗夜の為確認できなかったことを報告した。
「[写]魚釣、久場、久米赤島回航報告書」 1885年11月2日

3.「南航日記」内務大臣 山縣有朋 著 1886年5月

所蔵機関:国立公文書館
山縣有朋内務卿(大臣)の沖縄諸島、五島列島、対馬巡回視察日誌。沖縄県巡視の命を受けた山縣は1886年2月26日に新橋を出発、各地を巡視し3月31日に帰京し復命書を内閣に提出し回覧に供した。
「[写]魚釣、久場、久米赤島回航報告書」 1885年11月2日

4.『帝国版図関係雑件』所収「沖縄県久米赤島、久場島、魚釣島ヘ国標建設ノ件 明治十八年十月」より「甲第一号 無人島久場島魚釣島之義ニ付伺」 沖縄県知事[丸岡莞爾] 1890年1月13日

所蔵機関:外務省外交史料館
1885年に沖縄県が尖閣諸島を現地調査してから5年が経った後、同県知事から内務大臣に提出された伺書。尖閣諸島はこれまで無人島のためその所轄も確定していなかったが、近年(漁業を営むものが現れ)水産取締の必要が出たため、八重山島(石垣市)の役所から同役所の所轄と定めたい旨申し出が来ていることを報告し、その上で沖縄県としても尖閣諸島を八重山諸島の管轄に定めたい旨の伺いを立てたいとする沖縄県知事伺書写。「国標建設に関する沖縄県知事上申書(「甲第百十一号」)」の添付。
『帝国版図関係雑件』所収「沖縄県久米赤島、久場島、魚釣島ヘ国標建設ノ件 明治十八年十月」より「甲第一号 無人島久場島魚釣島之義ニ付伺」 沖縄県知事[丸岡莞爾] 1890年1月13日

5.『大東島取調書』所収「大東島支配方ノ件」 [沖縄県庁編] [1903年]

所蔵機関:那覇市歴史博物館
「大東島支配方ノ件」という1891年12月に沖縄県庁で作成された沖縄県庁文書(訓令案)の写。大東島を那覇役所、尖閣諸島(阿根久場島)を八重山島役所の所轄と心得る旨の訓令案が記載されている。
収録誌の「大東島取調書」には、大東島調査報告書等、多数の公文書写しが付属資料として収録されている。
『大東島取調書』所収「大東島支配方ノ件」 [沖縄県庁編] [1903年]

6.「漂流者清国より還る」 『九州日日新聞』1893年9月20日付

所蔵機関:国立国会図書館
熊本県の地元紙「九州日日新聞」が報じた琉球(沖縄県)八重山島(石垣市)尖閣群島(諸島)に出稼ぎに行った同県人井澤弥喜太の清国への漂流と無事帰還を伝える記事。
井澤以下鹿児島県人である満石良助(船頭)、有川岩助(同)の3名は石垣島より尖閣諸島へ出帆したが、暴風に遇い清国に漂着。その後、清国地方官保護の下、長崎港に送還された。この記事以降、九州日日新聞では「漂流談」と題する井澤のインタビュー記事を5回に亘って連載した。
「漂流者清国より還る」 『九州日日新聞』1893年9月20日付

7.「野田山隈諸氏の一行」 『九州日日新聞』1893年10月24日付

所蔵機関:国立国会図書館
熊本県の地元紙『九州日日新聞』が報じた琉球新報からの引用記事。尖閣諸島近海における新漁場開拓を目指す熊本県人野田正ら一行が石垣島に到着後、同魚釣島へ向け出発した事を伝えている。
記事の背景を略述する。野田正、山隈惟勇ら熊本国権党に属する同県人らは1893年6月から7月にかけて沖縄諸島を探険し、熊本に帰県。その後8月に熊本を出発、笹森儀助著『南島探験』によると8月末日には那覇港に到着し、9月初頭には八重山諸島ヘ出帆した。記事は八重山石垣島に到着後の動向を記している。
「野田山隈諸氏の一行」 『九州日日新聞社』1893年10月24日付

8.『熊本県民井澤弥喜太外二名清国ヘ漂流シタル節救助シタル同国地方官ヘ謝意伝達之件 明治二十六年』所収「別紙 [右照覆]」

所蔵機関:外務省外交史料館
熊本県人井澤弥喜太らは、石垣島より尖閣諸島へ出帆したが、暴風に遇い清国に漂着した。その後、同国地方官らによって保護・取り調べを受け、外交ルートを通って日本に無事送還された。外務大臣の命を受け、在上海日本総領事館は、清国側の関係者に感謝の意を表すことになった。本資料は、清国地方官の陳氏が在上海日本総領事館の発出した感謝状を受け取り、謝意を関係者に伝達した旨を、光緒19年12月7日(1894年1月13日)付の書簡で在上海日本総領事館の山座氏宛に回答[右照覆]したことを記録している。
本文中には在上海日本総領事館の発出した感謝状の内容がそのまま引用され、井澤らが「八重山島」から「胡馬島」(尖閣諸島)に向かった際に、暴風に遭遇し「清国沿海」に漂着したことが記されている。井澤らが「胡馬島」を目的地として航行したことを清国側では誰も問題視せず、そのまま日本側の感謝状を受理し、関係諸官に伝達したことがわかる。
『熊本県民井沢弥喜太外二名清国ヘ漂流シタル節救助シタル同国地方官ヘ謝意伝達之件 明治二十六年』所収「別紙 [右照覆]」

9.『沖縄県下八重山群島ノ北西ニ位スル久場島魚釣島へ標杭ヲ建設ス』所収「秘別第一三三号 標杭建設ニ関スル件」 内務大臣 子爵 野村靖 1895年1月12日

所蔵機関:国立公文書館
尖閣諸島を沖縄県に所轄編入したいとして同県知事から内務大臣に宛てて1893年11月2日付で提出された上申書への回答に際し、1895年1月12日付で内務大臣が作成した閣議への請議文書。これまで無人島だった同諸島だが近年漁業を試みる者が現れたため、同県の所轄に編入したいとの県知事要望に対し、内務大臣はこれを認める旨回答したいとして閣議に提出した。
『沖縄県下八重山群島ノ北西ニ位スル久場島魚釣島へ標杭ヲ建設ス』所収「秘別第一三三号 標杭建設ニ関スル件」 内務大臣 子爵 野村靖 1895年1月12日

10.『沖縄県下八重山群島ノ北西ニ位スル久場島魚釣島へ標杭ヲ建設ス』所収 [閣議決定 指令案 標杭建設ニ関スル件請議ノ通] 内閣作成 1895年1月14日、1月21日

所蔵機関:国立公文書館
尖閣諸島の沖縄県への所轄編入を許可する閣議決定文面(1895年1月14日付)及び、同県への指令案の文面(1895年1月21日付)が記載されている。本文中にある「別紙」は、9.「秘別第一三三号 標杭建設ニ関スル件」のこと。
『沖縄県下八重山群島ノ北西ニ位スル久場島魚釣島へ標杭ヲ建設ス』所収 [閣議決定 指令案 標杭建設ニ関スル件請議ノ通] 内閣作成 1895年1月14日、1月21日

11.『勅令第百六十九号』 葉煙草専売法ヲ施行セサル地方指定 1897年5月31日

所蔵機関:国立公文書館
1895年の尖閣諸島領土編入以降に公布された勅令第169号である。内容は煙草専売法を施行しない地方を指定するものであるが、指定地内に「沖縄県管下」として沖縄県内の離島の多くが指定されており、魚釣島が含まれている。1896年3月に公布された勅令第13号「沖縄県郡編制ニ関スル件」で確定した沖縄県の行政区分に尖閣諸島(魚釣島)が含まれていることを裏付けていると考えられる。
なお、座間味島と粟国島の間に「久場島」が記されているが、これは慶良間諸島の久場島を指しており、尖閣諸島の久場島とは別の島である。
『勅令第百六十九号』 葉煙草専売法ヲ施行セサル地方指定 1897年5月31日

12.『予と燐鉱の探険』恒藤規隆著 1936年

所蔵機関:国立国会図書館
著者の恒藤規隆は明治維新後の日本における初めての農学博士の一人である。恒藤は肥料原料となる燐鉱石の分布を探るべく日本全国を調査した。沖縄では尖閣諸島、波照間島等を調査し、調査結果については別著『南日本乃富源』に報告されている。
本史料は、恒藤の燐鉱調査回顧録である。1907年沖縄県の委嘱を受け、恒藤一行が沖縄県下の無人島尖閣諸島南小島の燐鉱資源を調査した際、南小島の海鳥剥製を作るための亜砒酸が溶け出した水を服毒してしまい、人事不省に陥ったことや、尖閣諸島出稼人に会いに行く家族の様子等が記されている。
『予と燐鉱の探険』恒藤規隆著 1936年

13.『沖縄県治要覧』 沖縄県編 1916年4月

所蔵機関:熊本県立図書館
1916年に沖縄県がまとめた県治要覧。沖縄県管内図に尖閣諸島(魚釣島、久場島、南小島・北小島)、沖縄県航路図に普通航路として那覇-魚釣島-基隆を記載している。
また、本文中からは、当時尖閣諸島は同県内における鰹漁場として認知されていたことがわかる。
『沖縄県治要覧』 沖縄県編 1916年4月

14.「尖閣列島の珊ゴ漁業 古賀商店へ許可」 1935年7月3日付 先島朝日新聞

所蔵機関:石垣市立図書館
八重山の地元紙『先島朝日新聞』が報じた記事である。1935年、沖縄県下における珊瑚漁業が実施されることになり、操業漁場を八重山郡尖閣諸島として申請した同諸島縁故者古賀善次及び末松重喜に漁業許可が下りた。
「尖閣列島の珊ゴ漁業 古賀商店へ許可」 1935年7月3日付 先島朝日新聞3面

15.『琉球全図』赤嶺康成/編 1958年4月

所蔵機関:沖縄県立図書館
琉球諸島(沖縄県)全図1枚。表に沖縄本島と周辺離島、裏に先島諸島(宮古群島、八重山群島)が描かれている。尖閣諸島は八重山群島の一部に含まれている。また九州南部の鹿児島県からトカラ列島、奄美諸島、琉球諸島、台湾北部までが描かれ尖閣諸島を含む琉球諸島の地理的境界が赤線で囲まれている。縮尺15万分の1。
『琉球全図』赤嶺康成/編 1958年4月

16.『鹿児島県水産試験場紀要第2集-東シナ海におけるサバはね釣り船の操業状況-』 鹿児島県水産試験場編 1960年9月

所蔵機関:鹿児島大学図書館水産学部分館
鹿児島県水産試験場による東シナ海におけるサバはね釣り船の操業状況報告である。1960年2月頃より尖閣諸島魚釣島近海(農林漁区番号529, 539, 549)にサバの回遊が集中し各船同海域で操業したことが報告されている。
『鹿児島県水産試験場紀要第2集-東シナ海におけるサバはね釣り船の操業状況-』 鹿児島県水産試験場編 1960年9月

17.『琉球水産研究所 事業報告書 1964/1965年度』 琉球水産研究所編 [1966年]

所蔵機関:沖縄県立図書館(画像は尖閣諸島文献資料編纂会所蔵本)
琉球水産研究所によるサバ漁場調査及び海洋調査(於1964年4月、尖閣諸島魚釣島西方近海で「はね釣り」を実施し、漁況と観測結果を報告)、深海一本釣漁場調査報告(於1963年7-8月、久米島西方、大正島(赤尾嶼)、与那国各島近海にて深海一本釣り調査を実施し漁況を報告)。沖縄においてサバ漁業は既に廃業しているが、漁場及び漁況の実態等の資料を集め、今後の見通し策を立てるため調査を実施したと報告されている。深海一本釣り調査は新漁場開拓を目的に実施。
左図はサバ漁場調査時の同漁場、付近を操業するサバ漁船は毎晩最低3隻、最高11隻を数え各船好漁している模様であった。右写真は尖閣諸島近海で漁場捜索中の内地サバ棒受網船。
『琉球水産研究所 事業報告書 1964/1965年度』 琉球水産研究所編 [1966年]

18.『尖閣列島写真集』 琉球政府出入管理庁/撮影 1970年7月

所蔵機関:沖縄県立図書館
1970年7月9日から同12日にかけて、琉球政府出入管理庁が尖閣諸島不法入域者に対する警告板を設置した際に同庁職員によって撮影された写真アルバム。魚釣島、北小島、南小島、大正島、久場島、沖の北岩各島および警告板設置の際の様子、不法入域(密漁・上陸および沈船解体等)を行う台湾人漁業者の様子をカメラに収めている。
『尖閣列島写真集』 出入管理庁/撮影 1970年

19.『復命書』 比嘉健次著(出入管理庁警備課長) 1970年7月24日

所蔵機関:福岡入国管理局那覇支局
1970年7月9日から同12日にかけて、琉球政府出入管理庁が尖閣諸島不法入域者に対する警告板を設置した際に提出された復命書。警告板設置状況及び不法入域台湾人(密漁・上陸および沈船解体等)への取締状況を報告。

転載元: 海上保安、国土防衛、美しい日本を私たちが行動して守りましょう

八重山 先史で検索

$
0
0


shimanosanpo.com > おきなわ > 島のレポート > 石垣島 - キャッシュ
12世紀以前 □先史時代 八重山先史時代は発掘された遺跡から、主に有土器時代と 、無土器時代に分けられる。 有土器時代とは、石器を使っていた時代、無土器時代とは 石器を使っていなかった時代となる。 通常は、無土器時代があって有土器時代となる ...
www.jsos.net/nlpapers/NL98_01-13.pdf
八重山諸島の先史考古編年は、波照間島下田原貝塚出土土器を示準とす. る下田原期 と土器が出土しない無土器期に大別される(金武 1994, 金武ほか 2007)。信. 頼性の 高い遺跡出土試料の放射性炭素年代測定値(以下、すべて測定炭素 ...
www.spf.org/yashinomi/pacific/.../yashidai01_07.html - キャッシュ

ゼミ

第1回やしの実大学報告書

[基調講演1]八重山の先史時代
では、まず石垣島をはじめとする八重山諸島に、いつごろから人が住み始めたか、という問題から進めたいと思います。私は人類の一番古い文化である旧石器時代からすでに住み始めたのだろうと思っています。そこで、本題に移ります前に、旧石器時代というのはどういう時代であったのかを少しお話ししてみたいと思います。
世界にはいろんな旧石器の文化がありますが、要点は、だいたい重要な問題は3つくらいに要約できるかと考えます。そのひとつはみなさんご存知の打製石器の製作・使用です。石器の器面 を研摩する技術をまだ持っていなかった。ポン、ポン、ポンと自然礫(石)を打ち欠いて作った、器面 の非常に粗い石器です。最初は非効率的な作り方でしたけれども、長い年月をかけて技術は向上していきまして、打製でもかなりすばらしいものを作るようになりました。

今ここに、持って参りましたのはレプリカです。国立台湾大学の宗文薫というたいへん著名な考古学者が、フランスにある旧石器時代後期の洞窟、ラスコー洞窟にいった際、その入り口にある売店で買ってきてくださったお土産です(笑)。旧石器ながら非常に鋭い刃を持っています。

ところで、研磨技術を持っていなかったというのが一般的にいう旧石器ですが、当時は磨製石器がないのかといと、きわめて稀ですが、あるにはあるのです。どこにあるのかというと、驚いたことに、この日本です。私も最近まで全然知らなかったのですが、今から3万年ぐらい前の旧石器時代後期に刃の部分だけを磨いた石斧が出てくるのです。刃以外の部分は打製中心で作ってあります。この種の磨製石斧はこのあとすぐに消えてなくなるのですが、外国ではオーストラリアでも旧石器時代後期の遺跡から発見されているという報告があります。
さて、特徴の2点目ですが、2点目は採集経済段階にあるということです。まだ、農耕や牧畜を行っていなかった。つまり、まだ生産の段階に到達していなかった時代です。
それから3番目は年代です。だいたい1万年以前ということになっていますが、これには条件がありまして、旧石器時代は世界のどこでも1万年以前に属しているというわけではなく、先進地域に限られています。先進地域ではだいたい1万年前ごろに新石器文化に移行しています。西アジア、ただ今、フセイン問題で有名なイラン、イラク辺り、それからヨーロッパや中国、そして日本では旧石器と新石器の境は1万年前あたりになります。
八重山から旧石器遺跡が発見される
可能性は十分ある
図1 170万年~100万年前の水陸分布
図2 40万年~2万年前の間で何回か
現れた陸域分布
ところが、先進地域の周辺地域、例えば台湾とかフィリピン、おそらくインドネシアもそうだったと思います が、こうした地域では1万年以降にも旧石器文化は存続します。それで将来、八重山で旧石器文化の遺跡が発見されたとしますと、上限は1万年以前にさかのぼるかも知れませんが、下限は1万年以後に下る可能性も十分あります。それでは、旧石器の遺跡が八重山から出るのかというと、残念ながら今のところ発見されていません。ただ、人類の歴史とは関係ありませんが、1万年以前の動物化石が発見された場所はいくつかあります。
そのひとつは、石垣市内にある石底山です。そこからは歴史時代の陶器や土器などが出ていますが、それらよりもはるかに古い動物化石も25種類発見されています。このように動物化石の出土する古い遺跡は八重山でも確認されていますが、旧石器時代の人骨、あるいは人工遺物が出土する遺跡は今のところ確認されていないのです。それでは、今後も発見の可能性がないのかといいますと、私は、大いにあるだろうと見ています。

その理由のひとつのは、まず古人類に関することですけれども、八重山の少し北にある宮古島では有名なピンザアブ人が出土しています。それから沖縄本島に行きますと有名な32000 年前の山下町洞人など、いくつか旧石器人が発見されています。それから台湾に目を向けますと佐鎮人が発見されています。このように八重山の南北で更新世の人類が発見されていますので、運がよければ八重山でも発見の可能性があると見ているわけです。現在沖縄、宮古、台湾で発見されています古人骨は、すべて進化の段階ではもっとも新しい新人のグループに賊します。この新人は我々現代人の直接の祖先だといわれており、後期旧石器時代になってはじめて現れる人類です。
最近、沖縄近辺の地質学的研究が非常に進みまして更新世という約200万年前に始まり、1万年前に終わる地質時代に、だいたい2回、琉球諸島は陸続きになったということが分かってきました。以前は1回だとされておりましたが。琉球大学の木村政昭先生が海底探査を行った結果 、2回陸橋で結ばれたということが判明したわけです。まず、更新世における最初の陸橋は約170万年前ですが、この時は中国南部から陸地が延びてトカラ列島で一旦途切れる。九州とはつながっていなくて、現在もそこが生物境界線になっています(第1図)。この時代は人類でいえば原人の時代で、北京原人が生きていましたので陸続きでありましたから、八重山に渡ることは可能でした。

次に100万年前ごろに八重山は孤島になり、再びつながるのがだいたい40万年前ごろ。この時代は旧人の時代ですので、運がよければ八重山から旧人の遺跡が見つかるかもしれません。山下町洞人や港川人はこの時の陸橋を利用したのでしょう。このように2回の陸橋があったということが分かったのは20年ぐらい前でして、それ以前は私たちは船か筏で来たんだと考えていました。

ちょうど篠遠先生のご講演ではアボリジニーの人々がオーストラリアに渡ったのが5万年前だということでした。オーストラリアは当時ユーラシア大陸と陸続きになっていなかったといわれています。したがって、海の上を歩いていくわけにはいきませんので(笑)、船で行くか、筏で行くか、何かすでに渡航手段を持っていたのではないかと推察されています。
奄美大島や台湾で発見されている
剥片を持った旧石器人が八重山にも?
 陸南部から台湾や八重山諸島・沖繩諸島を経てトカラ列島まで続く陸橋が、当時確実に存在したのであれば、新人だけではなく旧人、そして原人の発見もあるだろうというふうに私は考えています。ところで、宮古のピザアブ人ですとか、沖繩の山下町洞人がどのような文化を持っていたのかといいますと、今のところまったく分かっていません。当時、彼らが使用したと見られる石器や骨角器など人工遺物が見つかっていないのです。そういうことで旧石器研究は大きな壁にぶつかっているのです。 ところで、沖縄諸島の北に奄美諸島があります。そこでは最近、旧石器の一番最後の段階である後期旧石器時代の石器が発見されています。それから南の台湾でも同じ時代の石器が発見されています。これらの石器は不定形な剥片、剥片とは破片のことですが、大きな石から打ち欠いて石器を作る時にたくさんの石くずが出ます。このような石のかけらを剥片といいまして、その剥片をそのまま石器として使うのです。
 また、打ち欠いて残った石の核心の部分を石器として使用する場合、この種の石器を石核石器といいます。石斧は石核石器の一種で、先ほどお見せしたフランスからのお土産品であるレプリカの打製石斧も石核石器の1例です。

八重山式土器文化の起源
このような石器が奄美と台湾で発見されたわけですが、奄美のものはだいたい2万年前と古く、他方、台湾のものはずっと新しく5000年ごろのものです。日本でいうと縄文後期に相当します。日本ではすでに新石器時代に入っているわけですが、台湾ではまだ旧石器時代が続いていたということになります。このことは八重山の旧石器時代を考える際に暗示を含んでいると思います。ところで不定形の剥片石器はこういう石器は香港や中国南部、それからずっと南へ下がってオーストラリアでも最近出土したとの報告があります。それで、もし将来、八重山から旧石器が発見されるとしたら、奄美や台湾で出たような剥片石器であろうと渡しは見ています。以上で旧石器を終えまして、次に新石器文化に移りたいと思います。
新石器文化もみなさんご存知のことと思いますが、いろいろの時代的特徴があります。その中で主要なものを取り上げると、だいたい3つにしぼられますが、ひとつは磨製石器の使用です。
 もうひとつは土器の出現、土器の主な用途は煮炊きです。そして3つめは生産経済といって、農耕や牧畜を行う段階に入る。つまり旧石器時代の採集経済から生産経済へ移行するわけですが、ここに人類の一大転機があります。

 ところで、この3番目の農耕や牧畜ですが、このような生産経済への移行は世界の先進地域(例えば、西アジア、ヨーロッパ、中国など)に限られ、周辺地域、例えば北欧などでは磨製石器や土器は出ますが、農耕や牧畜は行っていなかったようで、日本の縄文時代も北欧などのケースと同じだったと考えられています。
ただし、最近の九州の佐賀県や福岡県における発掘調査の結果 から、縄文後期にすでに稲作を行っていたということが分かっています。それだけではなく、最近はより古い縄文後期にも稲作を行っていたのではないかと思わせる遺物が出ています。また、さらに進んだ意見としては、縄文中期に遡って稲作を想定する研究者もいます。実は岡山県辺りでプラント・オパールといいまして稲の花粉化石が縄文中期の遺跡から検出されたという報告がありまして、稲作の開始もだんだん古く遡るようになってきています。
3500年前に突然現れ、忽然と消える
八重山最古の土器、下田原土器
八重山の下田原式土器
さて、次に八重山諸島の新石器時代についてみますと、この時代の八重山で農耕や牧畜が行われていたかどうか、現在のところ確かな資料がありません。しかし、新石器のメルクマールである土器や磨製石器は存在していますので、新石器文化に含めることに問題はありません。八重山の一番古い旧石器文化は下田原式土器文化です。この古い文化を代表する下田原式土器とは、いったいどういう土器なのか、その特徴を見てみたいと思います。

 同じ3500年前の土器に沖繩では伊波式土器があり、八重山には下田原式土器があります。両方がどう違うのか見てみますと、伊波式土器は円筒形で、下田原土器は球形です。土器の口の部分を考古学では口縁部といいますが、伊波式は胴部から口縁部にかけて外の方へ反っています。八重山の土器は逆に胴部から口縁部の方へ内湾しています。それから八重山の土器には取っ手が2個ついていますが、伊波式にはつきません。一番大事なのは口縁部で、伊波式の口縁部は山形にとがっています。しかし、八重山の下田原式の口縁部はスパッと水平方向に切れています。この種の口縁部を平口縁といいます。それから伊波式の器面 には文様が描かれていますが、下田原式は基本的に無文です。このような違いがあります。
沖縄本島の伊波式土器
さて、この沖繩の伊波式土器に見られる山形の口縁部は、実は縄文土器の主要な特徴のひとつです。例えば当時の朝鮮半島には櫛目紋土器というのがありますけれども、櫛目紋土器は一貫して平口縁で、その点で縄文土器とはっきり区別 できます。このような山形突起の特徴から沖繩の伊波式土器というのは、縄文の影響を受けているといえるわけです。大きな意味ですと縄文系統の土器ということができます。
 それに反して八重山の下田原式土器は器形からいいましても、また施文の有無などの点から見ましても文様からいいましても縄文系統に含めることはできません。つまり伊波式と下田原式はつながらないわけなんです。
赤崎貝塚出土のシャコ貝製の貝斧
うした土器の分析から、沖繩の土器には縄文・弥生の影響を認めることができますが、八重山の下田原式には認められません。そのことから、八重山地方には沖縄諸島以北とは、異なった先史世界が展開しているといえるわけです。では、どうして宮古諸島以南に縄文や弥生文化の影響がおよばなかったかといいますと、沖繩と宮古島の間には300kmの長さに渡って水深が1000m以上もある宮古凹地と呼ばれる海峡があって、当時の航海技術では、この宮古凹地をその南北に住む人々は自由に渡れなかったようです。
これまで話してきたことから、沖繩の伊波式土器は九州系統ということがお分かりいただけたと思います。それでは下田原式土器のルーツはどこなのかというと、今のところまったく不明です。また、この下田原式土器文化の週末も謎で、この土器文化は忽然と消えていくのです。そして次の時代になると、今度は土器を伴わない石器主体の先史文化が現れます。土器を伴いませんので無土器時代、あるいは無土器文化と呼んでいます。

 無土器文化といいますと、一般的にはすぐ旧石器時代を思い浮かべます。ところが、八重山の無土器時代の石器を見ますと、すべて磨製なんです。つまり、新石器時代のものなんです。このような特殊事情から、我々はこの文化を新石器無土器時代(あるいは文化)と呼んでいるわけです。この時代の主要な石器は石斧ですけれども、その中に貝斧、つまり、シャコ貝で作った斧が混ざってきます。
八重山には貝斧や石斧に
象徴される文化があったのか? あるいは種族が交替は?

大田原遺跡の石斧
これまで我々は石斧も貝斧も編年材料にならず、これらは同じ時代のものと漠然と捕らえていました。ところが最近、どうも両者は時期が違うのではないだろうかと考え始めるようになりました。八重山の石斧を主体にする遺跡を見てみますと、表土の撹乱層からは石斧と貝斧が一緒に出てくることがあります。ところが、その下の未撹乱層から確実に貝斧が石斧に伴って見つかったということがしられていないんですね。そこで、石斧を作った文化と貝斧を作った文化は、はっきり分かれるのではないかと疑ってみたわけです。 宮古島に貝斧が出土するところがありまして、浦底遺跡といいますが、ここでは未撹乱層から貝斧が200点以上も出てきたんです。
 しかし、それに伴う石斧はわずかに2点でした。圧倒的に貝斧優勢の遺跡で、放射性炭素年代測定法で2500年から1900年前という数値が出てきました。で、八重山の石斧の年代を見てみますと、古いものは1800年前で、あとは12世紀です。ひとつだけ2500年前という古い数値が出ていますが、これはどうも貝斧が出土した層のようです。
 それで貝斧を作った文化と石斧を作った文化が時期的に分かれるならば、まず、最初に八重山には土器を伴う下田原式土器文化があって、次に無土器期の貝斧文化、そしてそのあとに無土器期の石斧文化が続くことになりますけれども、その場合、下田原式土器文化に伴う石器が一旦貝斧文化の介在によって中断させられることになります。そして無土器期の終末に再び石斧文化が現れるという、たいへん複雑な変化をたどることになるわけですが。どうもその辺の文化推移をどう解釈したらいいのかは、自信がありません(笑)。
与那空港トゥグル浜
それからまだ詳しく研究したわけではありませんが、無土器期の石斧と、一番古い有土器の下田原式土器文化に伴う石斧が、一見非常によく似ています。しかし、果 たして両者の間に系統があるのかどうか、両文化の系譜関係を考えるうえで、是非とも検証せねばならない問題です。ところで、この両文化の系譜関係の有無を考えるうえで、重要だと見られる遺跡が与那国島のトゥグル浜遺跡です。この遺跡には土器こそ伴いませんが、石器やその他の遺物は非常によく下田原遺跡のものに似ています。そういうことで、無土器期の古い様相を伝える遺跡ではないかと見ているわけです。この遺跡が古い下田原式土器文化と先史時代終末期の無土器期の石器を結びつける鍵を握っているように思われます。たいへん重要な遺跡と見ています。
先ほど篠遠先生のご講演にありました、西ポリネシアでしたでしょうか、そこでも突然土器が消えてなくなるとのことでした。こうした有土器から無土器への変化が同じ太平洋圏内にあり、八重山にも当てはまるのではないか、と考える研究者もいます。しかし他方、まだ土器が発見できないだけなんだという研究者もいます。
さて、時代は飛びまして12世紀になりますと、今度は急に北から新しい文化の波がやって来ます。九州の佐賀県に滑石という非常に柔らかい石の算出地がありまして、この滑石で鍋型の容器を作るのですが、この種の容器を滑石製石鍋といっています。この滑石製石鍋は非常に高価な交易品として、東は関東地方辺りまで運ばれ、そして南は九州を越えて奄美・沖繩へも持ち込まれ、沖縄諸島にも分布していることが分かっていました。この石鍋が10年ほど前に八重山でも見つかりまして、このような遠いところとも交易を行っていたのかと、関係者はみんなびっくりしました。八重山にも来ていたことが分かったんです。
繰り返しますが、この土器は非常に高価なものだったようで、庶民は手が届きません。そこで、まねをして作るわけです。石鍋を模倣した土器が沖縄諸島では城跡などから大量 に出土していまして、この種の模倣土器を城跡土器と呼んでいます。この呼び名は考古学上の正式な名称ではなく、ニックネームです。また八重山では、この石鍋に由来する土器が竹富島の新里村貝塚から見つかりまして、この土器を新里村式土器と呼んでいます。
この新里村式を祖形として八重山では外耳土器という取っ手が2個水平方向につけた新型式の土器が出現します。この外耳土器も石鍋に由来するという意味で、沖繩の、いわゆる城跡土器と兄弟関係にあるのです。

 かつて沖縄諸島と先島諸島はまったく違った先史土器文化圏に賊していましたが、ここへ来て初めて共通 の祖先に由来する土器を作るようになり、八重山を含めた先島諸島が琉球文化圏に包摂されていくわけです。この包摂される時期が12世紀ごろです。そして15世紀には琉球王朝が成立すると、今度は政治的に琉球王国の版図に組み込まれていく。
「第1回やしの実大学報告書」(1998年4月)
www.pref.okinawa.jp/edu/maizo/documents/shirahoposter.pdf
石垣島. Ishigaki Island. □会 場. 10:00∼11:30. 14:00∼15:30. 午前の部. 午後の部. 石垣市字盛山∼字白保(新石垣空港内). ※事前受付制(定員各20名). 八重山諸島. 先史時代の. 空白期. を埋めるか? 八重山諸島. 先史時代の. 空白期. を埋めるか? 土.
www.city.ishigaki.okinawa.jp/.../yaeyamakouko004.pdf
ここまで、先島諸島最古の土器文化である下田原期について述べてきましたが、地域の特徴をより理解していただくために、宮古諸島にも遺跡が登場する、無土器期についてご紹介します。

(1)無土器期とは紀元前後くらいを境にして、2,000年近い空白期を経て土器を持たない文化―新石器を利用する無土器期が確認されています。この時期は、放射性炭素年代測定の結果、宮古諸島では約2,700年前、八重山諸島では約2,000年~1,800年前に始まり、終末は中国産白磁碗や長崎産滑石製石鍋、徳之島産カムィヤキが入ってくる時期、12世紀初頭だということが確認されています。宮古諸島では、八重山諸島の遺跡よりも放射性炭素年代測定の結果が古く出る例が多く、先後関係や遺跡の性格に関する問題が指摘されています。

 しかしながら、無土器期には両諸島が同じ文化圏に属していたことがわかります。

(2)無土器期の環境と遺跡の立地無土器期の遺跡は、石垣島を中心に見た無土器期と、それより前の自然環境に関わる研究から、現在、遺跡が未発見で空白期になっている時期には、礁嶺(干瀬)を伴うサンゴ礁の発生が見られ、その前の時期よりもさらに海産物を求めやすい環境になったと考えられています。同時に、下田原期と無土器期の間には、海岸線が沖側に移動した可能性もあります。
 つまり、海進・海退の問題、自然災害(津波等)による集落の消滅・移動も含めて、現在発見されていない「先史時代両時期の間の空白期」を考える必要があり、それが今回利用した編年を支持する理由となっています。先に、無土器期の遺跡は、宮古諸島でも見つかることを紹介しました。宮古諸島では、これまでに8遺跡が確認されており、中でも発掘調査が実施された浦底遺跡、アラフ遺跡、長間底遺跡、島尻・南嶺の長墓遺跡が有名です。
 また、平成24年度末に発掘された、友利元島では、下層から無土器期と思われる包含層が確認されたという報告もあり、本報告が待たれるところですが、それを加えると、9遺跡となります。
 八重山諸島では無土器期の(または、無土器期の可能性がある)遺跡は、51~52遺跡あり(石垣市2009aに新発見の遺跡を追加した数)、遺跡の分布が広がっただけではなく、両諸島の遺跡数を合計すると下田原期の遺跡に比して3倍以上の数となっています。これらの遺跡の多くは、下田原期にはなかったと考えられる新期砂丘上に形成されています。標高はほとんど5m以下で、波照間島大泊浜貝塚で8m程です。無土器期の人々は、海浜や河口に面した場所に住み、海に依存した生活をしていたことが想像されます。

 (3)遺構遺構としては、掘立柱建物跡などの住居跡や、炉跡と考えられる集石遺構などが検出されています。また、無土器期の特徴として挙げられる「焼石調理の痕跡」と考えられる集石遺構も報告されています。その他、土壙墓が大泊浜貝塚で検出されています。
 土壙墓は第Ⅳ層中から掘り込まれ、第Ⅴ層の白砂に達しています。埋葬人骨は女性で、両膝が強く折り曲げられた伏臥屈葬で、骨盤の右側に新生児も埋葬されていました。上部が第Ⅲ層によって削られ、遺構の全容(墓を作る際に、どのように掘り込まれたか)は把握されていません。平面観は長さ150cm、幅50cmの楕円形で、人骨の頭部は東南東に向けられています。
 なお、同遺跡では以前の調査時にも、土壙墓に葬られた埋葬人骨が出土していますが、この調査では人骨の帰属を12世紀以降としています。帰属年代に不明な点はありますが、頭位がいわゆる民俗方位の西向きでないことからも、若干古手の様相を見せています。

 (4)食糧残滓食料残滓を見てみると、無土器期にも穀物などを栽培していた痕跡は見つかっていません。遺跡からは下田原期と同様に、貝類や魚類、リュウキュウイノシシなどの骨が出土しています。特に貝類は主要なタンパク源であったと見え、生息域も様々な種類が出土しています。
 また、爬虫類のカメや哺乳類のジュゴンの骨も出土していますが、哺乳類では圧倒的にリュウキュウイノシシの出土量が多く、イノシシが生息していない宮古島の長間底遺跡やアラフ遺跡、竹富島や波照間島の遺跡からも見つかります。また、宮古・八重山両諸島で、オオコウモリの骨も出土しています。また、アラフ遺跡でカエルの骨が多く見つかっていますが、これは遺跡周辺の環境を反映したものと考えられます。 

(5)人工遺物以上、無土器期の人々の生活環境に関わる部分を紹介しましたが、次に人工遺物を概観してみましょう。

1)石製品
 無土器期の遺跡では、石製品、貝製品、骨製品等が見つかっています。特に、他地域との比較において特徴的に捉えられているのは、シャコガイ製貝斧の存在ですが、もっとも多く出土するのは石製品です。無土器期の石製品は、石斧(図10)や磨石、敲石、石皿、砥石等、組成は下田原期とほとんど変わりませんが、石斧のサイズやバリエーションに変化があり、石包丁や石錘の可能性がある有孔石製品等が新たに加わる傾向があります。
 無土器期の石斧については、従来、大型化するという傾向が考えられてきましたが、高宮廣衞はこれに対し、大型化ではなく、「開元通宝が出現する時期になると再び20cm前後の、あるいはそれ以上の大型のものも若干現れるようになる。ただし、一般的にいわれているような大型化は認められない。つまり、平均値が増大して20cm前後になるといったような現象は、現在の資料に関する限り認められない」と報告しました。

 なお、この傾向は八重山諸島で見られるもので、宮古諸島では全時期を通して石斧の出土例が少ないため、判断するのは困難です。

2)貝製品
 石製品の次に多く出土するのは貝製品です。実用品である刺突具や工具、容器のほか、実用品または装飾品に分類される二枚貝や巻貝等の有孔貝製品が多く出土しています。この時期には、下田原期には見られなかった貝斧や円盤状製品等が出土し始めます。
 また、先述したシャコガイ製貝斧は、宮古諸島では浦底遺跡・長間底遺跡・アラフ遺跡の発掘調査で出土し、その量は八重山諸島の遺跡よりも多いです。また、出土傾向のみならず、その形態にも両諸島で違いがあります。
 八重山諸島ではちょうつがい部利用型に限定される傾向にありますが、宮古諸島では放射肋を利用したタイプも見られ、その形態も様々です。このシャコガイ製貝斧が文化の一部として認められるのは、琉球列島では先島諸島だけ。しかし、フィリピンやオセアニアでは早くから確認されていた遺物です。このことが、南方の地域との関係を指摘する大きな根拠となっています。さらに、円盤状製品(シェルディスクまたはその未製品と考えられるもの)も、無土器期の遺跡から出土し始める傾向にあります。同資料は有孔・無孔がありますが、ペンダント等、装身具の可能性が考えられています。
 フィリピンのDuyong洞穴ではシャコガイ製貝斧と一緒に出土しておりと考えられています。宮古諸島では浦底遺跡で出土し、八重山諸島では崎枝赤崎貝塚等から出土しています。
 安里嗣淳はこれら遺物のセット関係も考慮し、貝斧を作る技術はフィリピンからやってきた可能性が高いと考えています。

3)その他の製品
 その他、骨製品も出土しますが、無土器期の終末には他地域から搬入された遺物も見られるようになります。中国産陶磁器や、徳之島産カムィヤキ、長崎産滑石製石鍋、鉄製品、銭貨が挙げられます。中国産陶磁器には中国産白磁端反碗、白磁玉縁口縁碗、褐釉陶器が含まれ、すべて、大泊浜貝塚(沖縄県教育委員会1986)からの出土です。
 特に、中国産陶磁器や、徳之島産カムィヤキ、長崎産滑石製石鍋というセット関係は、1978(昭和53)年に発掘された恩納村の熱田貝塚でも確認されており(沖縄県教育委員会1978)、調査を担当した金武正紀は11世紀末~12世紀前半に属するこの遺物が、沖縄諸島のグスク開始期と関係する可能性を指摘しています。八重山諸島でも、無土器期の終末にも同じセットが搬入されたことで、北からの影響により新しい時代に変化していきます。なお、無土器期の終末からは鉄鑿等の鉄製品も、少量ながら認められます。興味深いものでは、中国唐時代に鋳造された開元通寶が複数の遺跡から見つかっています(図13:石垣市教育委員会1987ほか)。同資料がどのような経緯で八重山諸島に入ってきたのかをめぐっては諸説ありますが(木下2000)、いずれにしても無土器期の人々が何らかの形で対外的な交流をしていたことが分かる資料です。 


5.先史時代のまとめにかえて
  以上、連載1~4までは、先島諸島の先史時代、特に八重山諸島の先史時代を中心にまとめました。この地域の先史時代は、その源流について明確な答えはありませんが、沖縄本島以北とは異なる文化であることが指摘されています。また、下田原期の分布範囲が北は多良間島から、南は波照間島までの範囲だったものから、無土器期になると宮古島でも見つかり、先島諸島全域に広がります。無土器期の遺跡は八重山諸島のほうが、数は多く見つかっていますが、放射性炭素年代の測定値は宮古諸島のほうが古く出ているという傾向が見られます。これが無土器期の開始期に関係するものなのかは、検討の必要があります。まだ謎が多い先島諸島の考古学、特に先史文化ですが、2010(平成22)年に発掘調査が実施された白保竿根田原洞穴遺跡の調査(図14)では、「無土器期~下田原期より下位の層位は、土器がまったく伴わない層が複数時期にわたって存在する。多量のイノシシが確認される層、そのさらに下位からは、人骨が主体となって確認される層が存在する。これらの層位の最下層は後期更新世に属する可能性も考えられ、今後、慎重な調査研究が必要となっている」(片桐2010、片桐ほか2012)という成果が得られています。白保竿根田原洞穴遺跡の調査は、まだ継続中です。下田原期より古い人工遺物が発見されるのか、または、未発見の空白期を埋める資料が発見されるのか、今後の成果に期待したいと思います。先島先史時代の人々は、台湾やフィリピンにも近いこの地理的環境に適応しながら、島じまを自由に行き来し、生活を営んでいたと想像されます。その文化は琉球列島の他の地域とも異なるものでした。そして、「北からの影響」を受けて無土器期が終わると、再び土器文化(新里村期;石垣市2009b)が始まります。この土器→無土器→土器という変遷も、全国的にも例のないものです。
 
 
jaima.net/modules/guide6/content/index.php?id=26 - キャッシュ
先史時代、英雄時代、近世、近現代、戦争、戦後に時代を区分し、総勢十三名の各分野 選りすぐりの筆者が四十三編のテーマで八重山の歴史を読み解く。文化の起源、 オヤケアカハチの乱、人頭税、戦争マラリア、文芸復興など、様々なテーマ、角度から 歴史が ...
yaeyamanow.nanpusya.com/histry3.html - キャッシュ
これまで八重山の島々でもたくさんの貝塚や遺跡の調査が行われてきた。中でも1959 年に行われた早稲田大学の調査は大掛かりで、たくさんの出土品がありこれまで謎と されてきた八重山先史時代の一端が解明された。加えて大浜永亘氏が新たな出土品 を ...
daitetsukai.official.jp/?p=1009
2015年10月22日 - 琉球人はどこからきたのか? 九州から台湾にかけて弓なり状に連なる琉球列島は当初 は 東アジア大陸と陸続きだったが、太古の昔から火山活動や地殻変動を 繰り返し ながら現在の形に落ち着いたと考えられている。 2008年に八重山竿根 ...
shikakumame.web.fc2.com/sbkkenkyunote01-1.html - キャッシュ
この南島の最南端の宮古・八重山諸島は先島と呼ばれている。先島の先史時代は、 奄美・沖縄諸島の先史文化との関連がなく、特異な物質文化が形成・展開したので先島 文化圏と呼び、この先島文化圏は、文化内容の違いなどによって、古い順に先史時代の 「 ...
www5a.biglobe.ne.jp/~ache/sihimotabaru.htm - キャッシュ
この編年は八重山諸島の先史時代から歴史時代をⅣ期に区分し、第Ⅰ期を仲間第一 貝塚等の無土器遺跡の時代、第Ⅱ期を下田原貝塚等の厚手で製作過程が後述の外耳 土器に劣る土器の時代、第Ⅲ期は外耳土器を主体に輸入陶磁器や鉄製品を伴う時代、  ...

竹富島に苦力イギリス遭難慰霊碑建立を!苦力貿易船の竹富島沖座礁事件&苦力貿易船 竹富島 座礁 1866年 で検索

$
0
0

苦力貿易船 竹富島 座礁 1866年 で検索


苦力貿易船の竹富島沖座礁事件

竹富町史から引用

ロバート・バウン号事件から14年後の1866年6月17日、中国人苦力340人を乗せた船が、竹富島蔵元前の浜で台風に遭って座礁した。
溺死者114人、行方不明者62人、生存して帰還した者は166人で犠牲者は半数に達した。

溺死者114名のうち、竹富島へ流れ着いた中国人の死骸は39人、小浜へは24人、高那村へは1人、黒島村へじゃ34人,冨崎浜へは19人であったという。

イギリス人船の船主から
「海上航海用の食料と用水、その他船具などの所望品を用意してくれるように」と要望があり、それに応えた。

1866年7月1日
台湾から派遣された迎船が、崎枝村の前の沖に到着した。

冨村親雲上らの当局は、イギリス人から所望された牛1頭、??100斤、帰還用の10日分の食料・野菜・肴・薪木等を提供したところ、イギリス人は謝礼として、文書1通を提出した。



イメージ 1



イメージ 2


イメージ 3



イメージ 4



バウン号の苦力反乱と琉球王国―揺らぐ東アジアの国際秩序 (沖縄学術研究双書 (1)) 単行本 – 2001/5




イメージ 6


イメージ 7


イメージ 8



イメージ 9



イメージ 10

[転載]石垣市の概要

$
0
0


石垣島の風景と歴史など
 も く じ
1 石垣港

2 美崎(みさき)町の誕生

3 730交差点と730記念碑

4 サザンゲートブリッジ

5 登野城(とのしろ)漁港と八島(やしま)町

6 ナカドー道とトゥバラーマ

7 トゥバラーマの歌碑

8 平得(ひらえ)集落

9 真栄里(まえざと)集落

10 石垣空港

11 大型店舗の進出

12 三叉路のある風景

13 大浜(おおはま)集落

14 サキバルオン(崎原御嶽)

15 インカキ(海垣)

16 宮良川(みやらがわ)とヒルギ林

17 宮良橋

18 宮良川河畔・浜川のヤラブ(テリハボク)並木

19 赤馬の伝説

20 宮良(みやら)集落

21 白保(しらほ)集落

22 マジャンガー(真謝井戸)

23 石垣島の日本一・世界一その1 石垣島周辺のサンゴ礁

24 サトウキビのある風景

25 石垣島の日本一・世界一その2 イワサキクサゼミ

26 マクラム道路

27 於茂登(おもと)の峰々のある風景

28 大里(おおざと)集落

29 通路橋(とおろばし)

30 ジンギヤマ(ジンギ山)

31 星野(ほしの)集落

32 マンゲー山遺跡群

33 人魚と海の秘密(大津波)

34 石垣島の日本一・世界一その3 津波の波の高さ

35 ウラスククイツ(浦底越道)

36 伊野田(いのうだ)集落

37 金比羅坂(こんぴらざか)

38 大野(おおの)集落

39 玉取崎(たまとりざき)

40 石垣島の日本一・世界一その4 石垣牛とラップサイレージ

41 フナクヤー(舟越)

42 舟越(ふなこし)村

43 戦後開拓の船越(ふなこし)団

44 伊原間(いばるま)集落

45 伊原間の村獅子(むらじし)

46 明石(あかいし)集落

47 アイナマ石―石になった花嫁

48 久宇良(くうら)集落

49 久志真(くしま)村

50 吉野(よしの)集落

51 平久保(ひらくぼ)集落

52 戦後開拓の平久保団

53 平久保のヤエヤマシタン(八重山紫檀)

54 平野(ひらの)集落

55 平久保埼灯台

56 火番盛

57 フージバナリ(大地離)と「大鳥」

58 牧場のある風景

59 多良間田(たらまだー)跡

60 ヤッサクイツ(安良〈やすら〉越道)

61 廃村・安良(やすら)村跡

62 石垣島の日本一・世界一その5 カンムリワシ(冠鷲)

63 石垣島の日本一・世界一その6 オオゴマダラ(大胡麻斑蝶)

64 石垣島の日本一・世界一その7 オオジョロウグモ

65 沖縄県最古の地層・トムル層

66 西表石垣国立公園の誕生

67 ミヤラビクイツ(女童越道)

68 石崎

69 栄(さかえ)集落

70 兼城(かねしろ)集落

71 石垣島の日本一・世界一その8 ヨナクニサン(与那国蚕)

72 ヌスクマーペー(野底マーペー)

73 下地(しもじ)集落

74 戦後開拓の村々

75 多良間(たらま)集落

76 吹通川(ふきどうがわ)のマングローブ

77 伊土名(いとな)集落

78 大田(おおた)集落

79 独立行政法人水産総合センター西海区水産研究所石垣支所

80 独立行政法人水産総合センター西海区水産研究所八重山栽培技術開発センター

81 於茂登(おもと)トンネル

82 富野(とみの)集落

83 米原(よねはら)集落

84 米原のヤエヤマヤシ(八重山椰子)群落

85 石垣島の日本一・世界一その9 イシガキニイニイの生息地の範囲

86 石垣島の日本一・世界一その10 キシノウエトカゲ

87 荒川川(あらかわがわ)のカンヒザクラ(寒緋桜)自生地

88 荒川川河口の花崗岩

89 石垣島は石の博物館

90 オグデン道路・戦後を拓いた道

91 山原(ヤマバレー)集落

92 仲筋(なかすじ)村ネバル御嶽の亜熱帯海岸林

93 吉原(よしはら)集落

94 仲筋(なかすじ)集落

95 川平湾(かびらわん)

96 石垣島の日本一・世界一その11 黒真珠の生産

97 川平(かびら)集落

98 水産海洋研究センター石垣支所(元・沖縄県水産試験場八重山支場)

99 川平(かびら)貝塚

100 ヤドゥピキヤー(屋戸引き屋。仲間満慶山ゆかりの地)

101 石垣島の日本一・世界一その12 日本一早い夏、八重山の海開き

102 石垣島の日本一・世界一その13 マンタとの遭遇率

103 石垣島の日本一・世界一その14 ベストダイビングエリア

104 泡盛

105 大嵩(おおたけ)集落

106 ヨーンの道

107 崎枝湾(さきえだわん)のクルマエビ養殖場

108 崎枝(さきえだ)集落

109 トゥマタ松

110 御神崎(おがんざき)

111 雨の化石

112 デンシンヤー(電信屋)・「元海底電線陸揚室」

113 クリアランス船

114 石垣島の日本一・世界一その15 石垣島のパイン

115 仲間満慶山終焉之地碑(なかまみつけーましゅうえんのちひ)

116 獅子森(ししもり)地区

117 名蔵湾(なぐらわん)

118 名蔵川(なぐらがわ)

119 名蔵大橋(なぐらおおばし)

120 アンパル

121 石垣島の日本一・世界一その16 シレナシジミ(マングローブシジミ・ヒルギシジミ)

122 八重山上布(やえやまじょうふ)

123 唐人墓(とうじんばか)

124 冨崎(ふさき)

125 冨崎観音堂(ふさきかんのんどう)

126 嘉善姓(かぜんせい)一門の墓(石垣永将ゆかりの地)

127 石垣島の日本一・世界一その17 21の一等星と84の星座が見える星空

128 石垣島の日本一・世界一その18 ヤエヤマボタル(ヤエヤマヒメボタル)とオオシママドボタル

129 石垣島の日本一・世界一その19 石垣島の米

130 八重山漁協の競り市場

131 新栄(しんえい)町の誕生

132 護岸通りと市役所通り

133 石垣島の日本一・世界一その20 その他

主な参考文献

石垣市の概要
1 石垣市の位置
石垣市は、日本の最西端に位置する八重山諸島の主島・石垣島と、その周辺の小島および尖閣諸島からなっています。また、市街地にある石垣市役所は、北緯24度20分、東経124度9分に位置し、日本最南端の市となっています。
 石垣島の西の端は屋良部崎で、北緯24度26分、東経124度4分、東の端は平久保半島の伊波崎で、北緯24度35分、東経124度20分、南の端は字真栄里の海岸で、北緯24度20分、東経124度11分、北の端は平久保崎で、北緯24度36分、東経124度19分にそれぞれ位置しています。石垣島から東京までの距離は約1,957キロメートル、鹿児島までの距離は約1,019キロメートル、沖縄本島(那覇市)までの距離は約411キロメートル、宮古島市の平良までの距離は約133キロメートル、台湾(基隆)までの距離は約277キロメートルとなっています。

 

2 石垣市の面積
 石垣市は、石垣島と周辺の小島および尖閣諸島を市域としています。
 総面積は229平方キロメートルで、そのうち、石垣島の面積は223平方キロメートル、尖閣諸島の面積は5.56平方キロメートル、石垣島周辺の小島の面積は0.44平方キロメートルとなっています。(数値は平成18年〈2006〉)


3 石垣島の気候

 石垣島の気候は亜熱帯海洋性気候で、年平均気温は摂氏23.8度、月平均の最高気温は8月の摂氏28.9度、月平均の最低気温は2月の摂氏17.3度となっています。(数値は平成7年〈1995〉)
 年平均湿度は78%で、4、5月に梅雨入りし、月間降水量が最も多い月は8月で、235.9ミリメートル、最も少ない月は2月で112.9ミリメートルとなっています。また、年間では、2,065.6ミリメートルとなっています。(数値は昭和36年〈1961〉から平成2年〈1990〉の平均値)
 夏から10月頃にかけては台風シーズンで、9月頃強い台風が襲来する傾向にあります。日本の台風観測史上でも最大級とされる「台風5号」が八重山諸島を襲ったのは昭和52年(1977)7月31日のことで、その時には、最低気圧931.7ミリバール、最大風速53.0メートル、最大瞬間風速70.2メートルを記録しました。


4 石垣島の地勢

 石垣島は、北東部の平久保半島を柄とした柄杓状の形状をしています。主体部はほぼ方形で、その中央部に沖縄県下最高峰の於茂登岳(525.8メートル)をはじめ、桴海於茂登岳(477.4メートル)、野底岳(野底マーペー。282.4メートル)などによって形成される於茂登山系があります。
 また、於茂登岳の南方、市街地の北方にはバンナ岳(230.1メートル)、前勢岳(197.4メートル)があり、平久保半島にはハンナ岳(238.9メートル)、安良岳(366メートル)などがあります。
 河川としては、二大河川である宮良川(約12キロメートル)や名蔵川、それに東に轟川、北に吹通川などがあります。
 主な岬としては、市街地西方に位置する冨崎をはじめ、屋良部半島にある大崎、屋良部崎、御神崎、川平半島の突端に位置する川平石崎、平久保半島にあるトムル崎、浦崎などがあります。
 湾としては南部に宮良湾、西部に名蔵湾、崎枝湾、底地湾、北部に浦底湾、伊原間湾などがあります。


5 石垣市の人口

 石垣市の総人口は48,297人で、そのうち、男は24,086人、女は24,211人、世帯数は21,489戸となっています。(数値は平成22年〈2010〉5月末現在)


6 石垣市の歴史

 石垣市が「町」から「市」へと昇格したのは昭和22年(1947)7月10日のことで、当時の人口は17,963人でした(大浜町は6,468人)。その後、昭和39年(1964)に大浜町と合併し、石垣島全体が石垣市の市域となっています。合併直後の人口は4万1千315人でした。
 歴史を少しさかのぼってみますと、明治41年(1908)当時、八重山は全体で1つの行政区域をなし、八重山村と称していました。その後、大正3年(1914)に八重山村が4村に分村して、石垣村、大浜村、竹富村、与那国村が誕生しています。
 その当時、石垣村の範囲は石垣島の西部域を占め、登野城、大川、石垣、新川、名蔵、崎枝、川平、桴海の8か字からなり、大浜村は島の東部域を占め、真栄里、平得、大浜、宮良、白保、盛山、桃里、伊原間、野底、平久保の10か字からなっていました。そして、石垣村は大正15年(1926)に、大浜村は昭和22年(1947)に、それぞれ町制を施行し、「町」となっています。


転載元: 海上保安、国土防衛、美しい日本を私たちが行動して守りましょう

宮古島島民台湾殺害事件は、台湾山中をさまよった生存者のうち54名が台湾原住民によって殺害された事件である

$
0
0


宮古島島民台湾殺害事件

   
宮古島島民遭難事件(みやこじまとうみんそうなんじけん)は、日清修好条規の結ばれた1871年(明治4年)、琉球王国首里王府に年貢を納めて帰途についた宮古八重山の船4隻のうち、宮古船の1隻が台湾近海で遭難し、台湾東南海岸に漂着した69人のうち3人が溺死(1名は高齢のため脱落説あり)、台湾山中をさまよった生存者のうち54名が台湾原住民によって殺害された事件である。現在の日本史教科書では、「琉球漂流民殺害事件」と記述されている。
  日本では長く「琉球漁民殺害事件」と記述されてきたが、「宮古島民台湾遭難(遭害)事件」、「台湾事件」などと称され、統一した呼称はない。台湾では遭難船が到着した場所に因み、「八瑤灣事件」(はちようわんじけん)、あるいは「台湾出兵」と一連のものととらえて「牡丹社事件」と称する[1]

  日本政府は、事件に対し清朝に厳重に抗議したが、原住民は「化外の民」(国家統治の及ばない者)であるという清朝からの返事があり、これにより、日本政府は1874年(明治7年)、台湾出兵を行った。
宮古島島民遭難事件 場所 日付 標的 兵器 死亡者 負傷者 犯人 動機
Mudan Incident of 1871 tombstone.jpg
那覇波の上の護国寺にある「臺灣遭害者之墓」
台湾南部、当時の地名双渓口
1871年(明治4年)11月8日
年貢を納めて台風に遭い台湾山中を彷徨える琉球人
蕃刀
54人
虎口を脱せし者12名
台湾パイワン族
不明


事件の概要

発端

 納税の帰り、4隻の船が1871年(明治4年)10月18日、那覇を出港。風がやみ慶良間諸島に止まっていたが、10月29日に出発。強風に遭い、八重山船の1隻は行方不明となり、1隻は台湾にたどりついた。船は十二端帆船、144石積みと当時としては大型で、別名、山原船(やんばるせん)と言う。宮古船の1隻は宮古島に着いたが、他の1隻はこの遭難事件に遭った。

 漂着したのは台湾南東岸の高雄州恒春郡満州庄九柵であり、64名がここに上陸した。そこへ言葉の通じない2人の現地人が現れ、略奪などを働いた。
 漂着者たちは岩の洞窟に泊まったりしながら、山中をさまよったのち、首切りにあった。詳しくは「生還者ヨリノ聞書」(大山鹿児島県参事上陳書付属書類の2にある)参照。また照屋宏は1925年生存者島袋亀から聞き取りし、記録している。

遭難事件の記録

琉球政府の記録

 琉球政府で記録したものをここに記す。宮古島69人台湾で遭難、12人生残り、福州府に護送せられ帰唐船へ乗付那覇に帰着した中の二人、仲本筑登之(仲本加奈)、島袋筑登之(島袋次良)よりの聞書を示す。
明治4年10月18日、宮古島(2隻)と八重山(2隻)の船計4艘は那覇港から出帆した。船は琉球近海の慶良間島に到着、そこで風や潮の状態をみて、29日同所出発、11月1日、大風が吹いて、宮古島行の一つの船は漂流した。
 11月5日、台湾の山を発見した。6日上陸開始したが、上陸時3人は溺死した。64人が上陸して、人家を求めて徘徊した。漢族二人に逢い、人家の有無を質問したら、西方にいけば大耳の人あって首を切るので、南方にいけと教えた。両人の案内にて南方に向かう。
 両人衣服類は奪い取る。悪人の同類が多いだろうと落胆した。両人の教えに従い石の洞窟に泊まった。両人は盗賊の類と思い、別れて西に転じた。(中略)7日、南方に人家15、6軒あり。
 人あり小貝に飯を盛り66人に与えた。しかし残りの所持品を奪った。投宿す。  
8日朝、現地人は宮古人に向かって、我ら猟にいかんとす、ここに待てとあるが、疑惑を生じ、散りじりになる。人家5、6軒あり、一人の老翁が、琉球なら那覇か首里かと問う。
 この人は危害は加えなかったが、その後に、30人くらいが追ってきて、宮古人の簪、衣服を剥ぎ取る。1、2人ずつ門外に追い出し、刀をもって首をはねた。(以下略、生存者が那覇港に帰るまでのことが記載されている。)

生存者の1925年の報告

 政府関係者が聞きとったとは別の情報もある。照屋宏は老齢になった生存者、島袋亀から1925年12月、那覇で直接話を聞いた。殺害の直前、蕃産物交換業者の凌老生宅に逃れてきた遭難者たちがいた。集落から追ってきた蕃人たちは酒2樽を要求したが、凌老生宅にはたまたま酒樽がなかった[5]
 亀とその親は、凌老生が意味ありげに目配したのに気付き、床下に隠れた。知らない間に何人かがすでに門外に連れ出されていた。掴まれた細帯を振り切って逃げた幸運なものもいたが、頭髪を掴まれ引きづられて殺害されたものもいた。一行のうち、捉えられた浦崎金は牛と交換され、同じく平良は反物5反と交換され難を逃れた[6]。現場は双渓口の原っぱで、犯行は大勢の蕃社の人により行われた。

その後の経過

 現地人の天保、林阿九が生存者を匿い、また土地の有力者の楊友旺も協力、保護にあたった。彼らはその他に現地人を宥めるために多大の出費も行った。現地には50余体の首のない死体がころがっており、相当時間放置された。楊は自宅に40日間、生存者12名に食事を与え、手厚く保護し、長男の楊河財、甥の楊河和を伴わせて生存者を台湾府城(現台南市)に送った。
 経路は陸路、統補(地名)を経て、車城(地名)から海路であった。事件は台湾を管轄する福建の地方官から清国の中央政府に報告され、清朝政府は生存者を途中で保護し、福建を経由し琉球へ送り返すべく、琉球からの入貢船を待った[7]

 この間、生存者は台南にある台湾府城で、八重山船の遭難者に会い、一緒の船で中国の福建省福州府に輸送され、半年琉球館(琉球王国の出先機関)の保護をうけた。そして、1872年(明治5年)6月7日、那覇に帰着した。

 救助をした楊らは犠牲者の供養をし、現場に墓を建て、頭蓋骨以外はそこで埋葬した。後に統捕に墳墓を建て直した。台湾出兵時、統捕に建て直した墓地に日本軍により記念碑が作られたが、石に適当なものがなく中国本土からとりよせた。軍隊が台湾を離れる直前に完成した。頭蓋骨は、日本軍が探したが発見できず、後に述べる様に、輸送中の44個の頭蓋骨を確保し、日本に持ち帰った[8]

首狩は当時台湾にあったか

 鹿児島県参事、大山綱良が明治政府に出した「上陳書付属書類」によると、仲本筑登之と島袋筑登之両人の話として「殺した人の肉を食うという説もあり、また脳をとりだして薬用にするという説もある」と書いている。

 別の文献には、生蕃の現地人はその性質が非常に残忍であり、人肉食の習慣がある、18の部落からなり、その中で牡丹社というのが、特に残忍であった、とある。
また台湾原住民(タオ族全体とアミ族の一部を除く)には、敵対部落や異種族の首を狩る風習がかつてあったという記述もある。これを台湾の漢民族や日本人は「出草(しゅっそう)」と呼んだ。その名の通り、草むらに隠れ、背後から襲撃して頭部切断に及ぶ行為である。なお、出草については、一部の蛮人が晩秋から初冬にかけて、鹿狩りをすることをいうという説明もある[9]

 これは、文化も言語も全く隔絶した十数もの原住民族集団が、それぞれ全く交流することなく狭い台湾島内にモザイク状に並存していたため、互いに異なる部族への警戒感が強かったことによるとされる[10]

 『図説 台湾の歴史』 によると[11]台湾の台北県北里郷にある十三行遺跡(今から約1800年前から800年前)に出土した骸骨には傷があったり、首のないものもあり、あるいは首狩りが行われたと思われるとある。

その後の経過[編集]

琉球を管轄していた鹿児島県参事の大山綱良は日本政府に対し、責任追及のための出兵を建議した[21]。政府は、この琉球漂流民殺害事件に対して、清朝に厳重に抗議したが、琉球漂流民保護の責任問題はもつれた。さらに、1873年(明治6年)には、台湾に漂着した備中国(岡山県)柏島村の船の乗組員4名が略奪を受ける事件が発生し、政府内外に台湾征討論が高まった[21]
同年特命全権大使として清国に渡った外務卿副島種臣は、随員の柳原前光にこの件を問いたださせたが、清朝の外務当局によって「原住民は『化外の民』(国家統治の及ばない者)である」という責任回避の返答があるのみであった。
軍人や士族の強硬論におされたこともあり、日本政府は1874年(明治7年)、台湾出兵を行った[21]。この軍事行動は、牡丹社事件(ぼたんしゃじけん)、征台の役(せいたいのえき)とも呼ばれる。

台湾出兵

 1871年(明治4年)11月の宮古島民遭難事件に端を発して、早くも1872年(明治5年)に鹿児島県参事大山綱良らの台湾征伐論が台頭し、自ら征伐せんと請うた。
 日本政府は、琉球藩が、日本と清国の両属関係にあったことはよく承知しており、いずれその決着が必要と考えていた。外務卿副島種臣は征蕃の志を有し、米国公使でチャールズ・デロング、同国人チャールズ・ルジャンドル(李仙得)を招いて政府顧問にして備えた[22][23]
 翌年になり、政府の方針が決定した。琉球の側は、清国を刺激せず両属関係を維持することを求め、日本政府へ出兵を取り止めるよう嘆願していたが、事実とは異なる情報戦略が、滋賀新聞紙上で展開してされていたこと(当時の滋賀県令は、後の琉球処分官松田道之であった)を大浜郁子が明らかにしている[24]
1873年(明治6年)3月9日、副島種臣に明治天皇は勅語を賜った。
 朕聞く、台湾島の生蕃数次わが人民を屠殺すと。若し捨て問わんとするは、後患なんぞ極まらんと。今なんじ種臣に委するに全権をもってす。なんじ種臣、それ往きて、之を伸理し(道理のあることを主張する)、以て朕が民を安んするの意に副えよ。欽哉(つつしめや)

 副島は1873年旗艦龍驤に乗り横浜を出発した。天津において李鴻章と日清修好条約を締結したので、北京に赴き清国皇帝に謁見した。その直前、謁見の方法でこじれていた時、彼は台湾事件に関して清廷の処置を尋ねた。
 総理部門の大臣(軍機大臣文詳)は、生蕃と熟蕃があり、王化に服するのを熟蕃といい、服従しない生蕃は化外に置いて支配せずと答えた。これは日本の征蕃の根拠を与えたが、文書によるものではなく、口頭の言質にとどまった[25]。そこで我が臣民は「貴国が化外の民として治めずんば、我が国は一軍を派遣して、わが民を害する残忍な蕃人を懲罰すべし。他日異議あることなかれ」、と言明した。

 副島は帰国し、復命した。しかし、1873年(明治6年10月)の征韓論争に敗れたため下野した。1874年(明治7年)4月、西郷従道に台湾征伐の命が下った[26]

西郷従道
 台湾蕃地処分につき、汝従道に命じ、事務都督たらしむ。凡そ陸海軍務より賞罰のことに至るまで委するに全権をもってす。我が国人を暴殺せし罪を問い、相当な処分を行うべきこと。若しもその罪に服さざる時は、臨機兵力をもってこれを討すべきこと。わが国人の彼地に至る時、土人の暴害に罹らざる様、能く防制の方法を立てるべき事。
 ここにきて突然、清国政府が異議を唱え、また以前はあおりたてていたアメリカ大使とイギリス公使が突然意見を変えた。米国公使ピンガムは局外中立を宣し、英国公使ハリー・パークスも出兵を批判した。大隈長官は出兵中止を伝えたが西郷は同意せず、また、日本軍隊の士気もすこぶる高く、出航をさしどめたら何がおこるかわからない状態であった。
 しかし、アメリカ、イギリスの船を使う計画は実現困難になった。勅書をたてに5月3日、兵員3658人を従え軍艦日進孟春は長崎から出航した。次いで、大有丸、明光、運送船三邦丸と、運よく長崎に入港した米国商船シャスペリィを購入し高砂丸[27]とし、また英船デルター号を買収して社寮となづけ、5月16日に出港した[28][29]

台湾出兵時の日本人兵士

 西郷は陸軍少将谷干城と海軍少将赤松則良を従え出港した。清国政府海防役人の要求も無視し[30]日本軍は激しく侵攻、熟蕃、生蕃各社は降伏した。
 最終的には牡丹社と高士仏社の頭目も降伏。西郷従道は蕃人との交歓に意を尽した[31]また従道は殺害された被害者の遺骨を集め、現地人で救助にあたった楊らの協力を得て現地に墓を造った。

戦後処理

 事後処理として日本政府は大久保利通を北京に派遣し、交渉は9月10日に開始された。北京に派遣された大久保利通は、日本の意見を強力に主張した。

 これに対し、清国政府代表(清国軍機大臣恭親王、大学士文禅)は激しく抗議した。清国の主張は、台湾生蕃の地は清国の属地である、「台湾府誌」に載せているのは属領の証拠である、清国の内地にも蕃地がある、化外の民といったのは文書でなく、口頭の言明にすぎない、万国公法は西洋諸国が編成したもので、清国は納得しないなどである。

 交渉は平行線のままに進み決裂寸前であった。中国側とは会議7回、また清国駐在イギリス大使トーマス・ウェードとの間に8回の会見もあった。大久保は最後に帰国の意思をほのめかしたが、中国の対応は極めて悠長であった。
 土壇場にきた大久保は台湾蕃地は中国の領土でないという主張を引込め、ひたすら償金を引き出すように論点を移した。台湾蕃地が中国の属国でなければ、償金を取り立てる根拠がなくなるのである。

 大久保はウェードの調停により互換条約の調印にたどり着いた。償金50万両を支払い今回の日本の台湾出兵は義挙(正義)の行動であると清国が認めることになった[32]もっとも日本の戦費はこの10倍に上った[33]

 清国はこの事件を不是となさざること。(「日本の台湾出兵を保民の義挙」と認める)清国は遺族に対し弔意金を出す。日本軍が作った道路、宿舎は有料で譲りうける。両国は本件に関する往復文書を一切解消する。清国は台湾の生蕃を検束して、後永く害を航客に加えないこと。日本軍は1874年12月20日まで撤退する。

 この条約によって、両国は、琉球は日本国の領土であり、台湾は清国の領土であることを認めた。また、琉球民のことを「日本国属民」と表現することによって、条約上、琉球が日本の版図であることを日清両国が承認する形となり、琉球処分を進める上で、日本に有利な結果となった[34]

 琉球国は廃藩置県の前に早くも日本の領土として取り扱われ、あくまで一国の形態を維持している琉球国(藩)に業を煮やした日本政府は1879年(明治12年)4月4日に琉球処分を行い、日本の一県として廃藩置県を断行した。
 その結果、沖縄は従来外務省の扱いであったのが(1872年9月28日)、内務省扱いに変更(1874年7月12日)になった。しかし、最終的に琉球の国籍が確定するのは、日清戦争で日本が勝利して後のことであった。

その後の台湾と宮古島の関係

 また沖縄戦の前後の時期には、一万人弱の人々が宮古島から台湾に強制的に疎開している[51]。なお、宮古島も含む先島諸島から九州以北への組織的疎開は行われていないが、個人的な疎開は散見される。

 宮古島と台湾の関係においては、現在でも、高校、中学レベルの交流が行われている[52][53]1997年(平成9年)1月、宮古商工会議所の一行により台湾南部観光旅行の際に宮国文雄は最初の墓参をおこない、同4月に第2回目の墓参をおこなった。西郷の建立した、〈琉球藩民五十四名墓〉の文字は読み取れるが、あったはずの〈大日本〉の字は消されていた。
 この文献には、はっきり大日本が読み取れる[54]。事件の地も訪問したが、現地と思われる処は台湾3軍の演習地とあり、入れなかった。 2005年(平成17年)6月、台湾から当時の事件を謝罪したいと子孫たちが沖縄、宮古島を訪れ、日本側の子孫と友好の握手を交わした[55]

日台関係史

$
0
0


日台関係史


   

日本
台湾在外公館
日台関係
JapanとTaiwanの位置を示した地図
交流協会台北事務所台北駐日経済文化代表処
日台関係史(にったいかんけいし)では、日本台湾の関係の歴史について概略する。


日本統治時代以前(- 1895年)

 日本では、戦国時代から江戸時代初期にかけての台湾を「高山国」、「高砂国」と称し、そのいずれもが「タカサグン」からの転訛という。これは、商船の出入した西南岸の打狗山(現・高雄市)が訛ったものと思われる。

 1593年文禄3年)、豊臣秀吉原田孫七郎に「高山国」へ朝貢を促す文書を届けさせようとしたが、当時の台湾は統一的な政府が存在しなかったため交渉先を見つけることができずその試みは失敗した。

 1628年寛永5年)、台湾貿易をめぐり、オランダの植民地政府との間に紛争発生(タイオワン事件)、江戸幕府が平戸のオランダ商館を閉鎖。

 1639年寛永16年)、将軍の徳川家光老中が、江戸に参府した平戸オランダ商館長であるフランソワ・カロンと会談。幕閣は、明朝政府の渡航許可証を与えられた中国人が台湾に渡航していることをカロンから確認できたことで、マカオから渡航していたポルトガル船の渡航禁止を決定する。

 1662年、「反清復明」を唱えて清朝に抵抗していた中国人と日本人混血である鄭成功の軍勢は、清への反攻の拠点を確保する為に台湾オランダ東インド会社を攻撃し、東インド会社を台湾から駆逐した。

 1871年12月17日琉球那覇を出帆した宮古島船が遭難し台湾南端に漂着、上陸した乗組員が台湾原住民に襲撃され、うち54人が殺害される事件が発生した。
 1874年明治7年)5月、陸軍中将西郷従道率いる征討軍3000名が台湾に上陸し、原住民居住地域を武力で制圧し、占領(台湾出兵)。清国政府が日本軍の出兵に賠償金50万両支払うことと引き換えに、日本軍が撤兵した。

日本統治時代(1895年 - 1945年)

1895年4月、日清戦争後の講和会議で調印された馬関条約(日清講和条約)により、清国が台湾・澎湖諸島を日本に割譲。
 その直後、台湾人らによる台湾民主国の建国宣言がなされる。台湾民主国軍は、上陸した日本軍と武装闘争するも、初代総統唐景、第2代総統劉永福が相次いで大陸に逃亡し、約5か月後には完全制圧される。

 日本は、1895年5月、台湾総督府を設置、樺山資紀海軍大将を初代総督に任命し、植民地統治を開始した。児玉源太郎第4代総督(1898年 - 1906年)のもとで後藤新平が民政長官に就任し、土地改革、ライフラインの整備、アヘン中毒患者の撲滅、学校教育の普及、製糖業などの産業の育成を行うことにより台湾の近代化を推進。
 一方で植民地統治に対する反逆者には取り締まりをするという「飴と鞭」の政策を有効に用いることで植民地支配の体制を確立した。

 日本の敗戦により、488,000余りの在台湾日本人(軍人166,000人を含む)の大半が本土に引き揚げ、28,000人余りが国民党政権の「留用者」として残った。最後の台湾総督安藤利吉は、戦犯として上海に送られ自害。1946年5月の勅命により台湾総督府は正式に廃止された。

国交回復から断絶まで(1945年 - 1972年)

 日本の降伏後、台湾に進駐し実効支配した中国国民党の台湾当局は、日本資産の接収を実施した(接収された資産総額は、当時の貨幣価値で109億9090万円。土地を除く)。日本は、1951年9月8日サンフランシスコ平和条約で台湾・澎湖諸島の権利、権原及び請求権を放棄したが、この講和条約には中華人民共和国、中華民国のいずれも参加しなかった。

 その後、日本は、アメリカの仲介により、台湾のみを実効支配する中華民国政府との二国間講和条約の交渉を開始。1952年4月28日日華平和条約に調印、日本と台湾(中華民国)との国交が回復した(なお、サンフランシスコ平和条約および日華平和条約では台湾の主権の帰属先は未定であるという台湾地位未定論がある)。
 同条約議定書で中華民国は日本に対する損害賠償請求権を放棄したことは、蒋介石総統の「以徳報怨」の一つとして当時の多くの日本人に受け止められた。また、日本からは白団と呼ばれる有志の軍事顧問団が台湾に渡り、金門砲戦などを指導して台湾の中華人民共和国による併合から守った。

1957年、外相兼任のまま内閣総理大臣に就任した岸信介は、同年5月に台湾などのアジア5カ国を歴訪。

 1963年9月7日、中国の通訳周鴻慶が帰国直前に台湾への亡命を求めようとして逮捕され、その後亡命意思を翻意したとして、翌年1月に中国に強制送還される事件が発生した(周鴻慶亡命事件)。中華民国政府は日本側の対応・措置を「親中共行為」として激しく非難し、両国関係は緊張した。

 関係修復を図るべく、1964年2月、吉田茂元首相が池田勇人首相の意を受けて台湾を訪問、蒋介石総統と会談した。これを契機に「日華共同反共」などが盛り込まれた「中共対策要綱」なる文書(いわゆる吉田書簡)が極秘に交わされた。さらに、同年3月には、外務省が、台湾の国民政府との断絶は国益に反する等の「中国問題に関する見解」を発表。同年7月には大平正芳外相が訪台し、「日本は中華民国が反攻復国に成功することを非常に望んでいる」と表明した。

 1967年9月、佐藤栄作首相は、中国側の激しい批判キャンペーンにもかかわらず、台湾を訪問し、蒋介石総統と会見。同年11月には、後に総統を世襲することになる蒋経国国防部長が日本を公式訪問した。

 これまで戦後から国連常任理事国を務めた台湾は、中国と比べて国際的に認知されていた。しかし、1970年頃からベトナム戦争を背景とした中国と米国との接近、西側主要国(英仏伊加)と中国との国交正常化など、国際社会の中で中国が立場を顕示しはじめた。
 また、日本国内でも一部の親中派議員による「日中国交回復促進議員連盟」発足等の動きも見られるようになる。

 こうした国際情勢の中で、1971年の第26回国際連合総会のアルバニア決議(2758号決議)により常任理事国の権限が中国側に傾き、中国の常任理事国入りが決定され、台湾は国連を追放された。
 日本は、中国の国連加盟に賛成であるが、台湾の議席追放反対を政府方針とし、アルバニア決議に反対票を投じた。また、二重代表制決議案の共同提案国となり提出したが表決されず、佐藤首相は国内のマスコミや野党から激しく追及された。

 翌年1972年ニクソン訪中は日本に衝撃を与え、1972年9月29日田中角栄政権は、中国大陸を支配する中華人民共和国政府を「中国の唯一の合法政府」と承認し、国交を樹立した(日中国交正常化)。
 その際、日本は、日中共同声明に日華平和条約の遡及的無効を明記することに応じない代わりに、大平正芳外相が「日華平和条約は存続の意義を失い、終了した」との見解を表明。
 これに対し、中華民国外交部は即日、対日断交を宣言した(日台断交)。

台湾問題   

金門島中華民国実効統治)における「三民主義統一中国」のスローガン
対岸の廈門市中華人民共和国実効統治)にある「和平統一 一国両制」のスローガン

 台湾問題(たいわんもんだい)とは、中華民国実効統治している台湾の政治的地位および主権帰属に関する中華人民共和国と中華民国の政治問題を指す。なお、中台間では、両岸問題の呼称が用いられている。

 台湾を巡っては、両国の政党や論者により、さまざまな見解がある。主な論点を挙げると、中華民国による台湾接収の是非や、中華民国と中華人民共和国の関係、さらに現代における台湾人の基本的ルーツが原住民に有るのか、漢民族に有るのかなど、台湾の歴史、文化、政治の各方面に及んでいる。

問題の歴史的背景

 台湾史の特徴は、外来政権による統治と、住民のアイデンティティーの変遷である。

先史時代と台湾原住民、中国側の記録

 先住民であるマレーポリネシア系の台湾原住民は部族ごとに別れて国家を建設することはなく、また文字がないため歴史記録を残さなかった。
 朝が13世紀後半に、澎湖諸島に行政機関を設置したという史料があるが、台湾本島にまで領有範囲が及ぶことはなかった。
 その後、漢族朝が澎湖諸島を領有したが、やはり台湾本島にまでは領有が及ばなかった。

外来政権(スペイン人・オランダ人)と漢民族の流入

 台湾内部の歴史が記録されるのは、最初の外来政権であるヨーロッパ人の到来以降である。17世紀になるとスペイン人が台湾島北部を一時領有し、更にはオランダの東インド会社が現在の台南市を中心として台湾島南部を制圧した。

 東インド会社は福建省広東省沿岸部からの移住民を大量に募集して開墾を進めた。そのため、労働力として漢民族の男性が移入し、原住民(特に平埔族)の女性と混血していった。

鄭成功政権

 その後、「抗清復明」の旗印を掲げた鄭成功が、1661年から台湾のオランダ人勢力を攻撃した。翌1662年には最後の本拠地であるゼーランディア城も陥落させ、オランダ人は全て駆逐されていった。
 鄭成功は台湾を東都と改名して「抗清復明」の拠点とした。1662年に彼が死去した後も、息子である鄭経が「抗清復明」の基地化を進めていった。

清朝の統治と漢民族への同化政策

 鄭氏による台湾支配はその後の朝の攻撃によって短期間で終わり、台湾は清朝の支配下に入ることとなった。しかし、当初清朝は、抗清勢力を壊滅させる為に台湾島を攻撃したので台湾島の領有には消極的であった。

 だが、最終的には海賊の蔓延を防ぐという軍事上の観点から領有することを決定し、台湾に1府(台湾)3県(台南、高雄、嘉義)を設置した上で福建省の統治下に編入した。ただし、それ故に、台湾本島における清朝の統治範囲は島内全域に及ぶことはなく、半ば見捨てられた島状態となって行った。以上の経緯が台湾独立派の主張する「歴史的に中華人民共和国の台湾領有権は不当」の根拠の一つになっている。

竹富 大石隊 で検索

$
0
0


イメージ 1

www.taketomijima.jp/blog/archives/000698.html - キャッシュ
竹富町には、竹富島の世持御嶽境内にある竹富町戦没者慰霊碑にて慰霊祭が毎年とり 行われています。今年も竹富町長 ... 大石隊は高知県人を中心とした150余名の部隊で 、竹富島を守備範囲として配属されていました。 竹富島は、石垣島 ...
shimanosanpo.com > おきなわ > 島のレポート > 竹富島 - キャッシュ
1941年~1945年 □太平洋戦争 八重山では上陸戦は行われず、竹富島では他の島 のように空撃も少なかった。 ... 1994年南西諸島に沖縄守備のための第三十二軍が 組織され、竹富島には、大石喬を隊長とする大石隊は米英軍の上陸を迎え討つために ...



イメージ 2

nakanishi-satoshi.hatenablog.com/entry/.../1322539432 - キャッシュ
竹富島守備隊長であった故大石喬氏は今でも竹富島の島民から尊敬され続けている。 ... の書いた資料があったが、それには、沖縄では日本軍兵士と住民が固い信頼感で 結ばれた事例は少なく、大石隊は唯一の事例であると書かれている。
fuse.seesaa.net/article/40430511.html - キャッシュ
そのことを忘れてはいけない。 もし日本に戦争がなく、多くの土佐の先輩たちが死んでい なかったら、今の高知はもっと違ったものになっていたに違いない。 優秀な人材から 死んでいく。 それが戦争であると思う。 以下ご参考。 島民を守った反骨の部隊「大石隊



イメージ 3
plaza.rakuten.co.jp/tosanikki/diary/201111190000/ - キャッシュ
竹富島は、連合軍の上陸が結果として無かった為、直接の戦闘はありませんでしたが、 機雷解体中の爆発や機銃掃射、マラリアなどで9名の戦没者が出ており、この戦没者を 弔う為に、竹富島の島民の皆さんが建立してくれたのが、「大石隊 ...
teidonthe3.theblog.me/posts/categories/67350
大石隊の一覧。戦争中の竹富島 - 戦争が始まることになったので南洋から竹富島に 移り住むことになった父。最初はお婆さんの弟が所有していた家に住んでいた。でも、昔 のこと嫁と姑との関係からその家を出ることになった。当然、あてがない。当時、大方の 人 ...


イメージ 4


d.hatena.ne.jp/nakanishi-satoshi/20111129 - キャッシュ
... 編成された竹富島守備隊(約150名)の隊長をしていた話を聞き、そして、依光県議の 曾祖父も大石隊の一員で竹富島に駐屯していて、戦後何度か竹富島を訪れたことが あり、依光県議は高齢の曽祖父に代わって竹富島にある大石隊慰霊碑 ...
blog.goo.ne.jp/.../e/0c36068cd16006f9c1ad70f8368d5746 - キャッシュ
沖縄・石垣島へ行ってきました・・・その1 沖縄・竹富島へ行ってきました・・・その2 の 続きです。 今も続く高知の旧日本兵(大石隊)と竹富島の住民の交流 竹富島に、日本最 南端のお寺、喜宝院(きほういん)があり、 そこに蒐集館(しゅうしゅう ...


イメージ 5


www.y-mainichi.co.jp/news/8524/ - キャッシュ
竹富竹富町主催の第46回慰霊祭は23日午前10時から、竹富島小城盛の中腹にある 竹富町戦没者慰霊の塔で行われた。 ... 一方、喜宝院境内の大石隊戦没者慰霊の塔 でも、関係者や竹富小中学校生が参列して慰霊祭が行われた。竹富島 ...
jaima.net/modules/blog5/index.php?p=122 - キャッシュ
午前10時頃、竹富町出身戦歿者慰霊之塔で、竹富町主催の第54回竹富町戦没者追悼 式が行われました。 竹富町出身戦歿者 ... 竹富島では米軍と直接戦闘はなかった ものの、大石隊から9人の戦病没者がでました。 大石隊戦没者慰霊之塔 ...

琉球政府が尖閣切手

$
0
0
竹富島 貴宝館 蔵

イメージ 2





「尖閣諸島」切手

 日本への返還直前の1972年4月14日、沖縄で郵便事業を行っていた琉球郵政庁記念切手「海洋シリーズ」第3集「海鳥と海と島」を発行したが、これは尖閣諸島の南小島でアホウドリ[43]が羽根を休める風景を描いたものだという。これは琉球郵政庁が切手を発行権限があるうちに、尖閣は沖縄の島であることを主張する切手を残すためであった。

 公式には切手の題目は「海鳥」と題されているが、これは領有権を主張し始めた中華民国政府に対する配慮から、アメリカから発行中止命令[44]を受けないためのカモフラージュであった。1971年に琉球大学の調査によりクロアシアホウドリとアホウドリが尖閣諸島に生息することが確認されたことから、琉球郵政庁の切手発行担当者は原画担当者の安次富長昭にアホウドリを描くように指示、調査団の説明からイメージを膨らませたという。このようにして「琉球」の名で尖閣諸島切手が発行された[45][46][47]

 また、担当者は第1集の「夕陽と島」でも魚釣島に沈む夕陽にしようと目論み、写真撮影のため原画技官を2週間に渡り出張させたが、悪天候のため尖閣諸島にたどり着けず、やむなく慶良間の海と島に変更されたという[48]


イメージ 1
竹富島 貴宝館 蔵

琉球郵政庁

   
琉球郵政庁が併設されていた那覇東郵便局(2階と3階が郵政庁庁舎であった)

 琉球郵政庁(りゅうきゅうゆうせいちょう)は、復帰前の沖縄県において郵便事業及び電気通信行政を取扱っていた行政機関。ここでは、沖縄本島の郵便事情を中心に述べる。

概要

沖縄戦により郵政事業は壊滅状態になったので、最初に郵政組織の再建からしなければならなかった。
1945年8月20日に発足した沖縄諮詢会に逓信部が設けられ、翌9月には郵便の取り扱いが始まるなど、徐々に再建されていった。
地上戦がなかった他の地域でも、既存の郵便局を各支庁の直営にして運営を始めていった(ただし、簡易生命保険事業などの郵便以外の諸事業を停止した)。
その後、各群島ごとに分立していた郵政組織を統合する機運が高まり、1950年4月1日に統一郵政組織「琉球郵政庁」が設置された。
そして琉球臨時中央政府の発足に伴い、琉球郵政庁は内部部局の「郵政局」となり、続いて琉球政府郵政局となった。
ところが1953年になって、郵政局は工務局・運輸局と統合され「工務交通局」になった。その結果、郵政事業の経営に支障を来たしたため、1960年に郵政特別会計が発足し、1961年には建設運輸局(後に通商産業局)の外局の郵政庁が設置された。
1960年代半ばまで郵政事業は黒字であったが、1968年以降は赤字に転落した(2003年まで、郵政事業庁琉球郵政事業未決済金という、琉球郵政庁時代の赤字を繰越欠損金として毎年計上されていた)。
赤字に転落した原因は、
  • 物価の上昇に合わせて料金の改定を図らなかったこと
  • 切手収入に依存し、切手の発行数量を大幅に増加させたことで郵趣家の不信を買ったこと
  • 労働組合が政治運動にのめりこみ、サービスの低下を招いたこと
などが挙げられる。
郵政三事業のうち、簡易生命保険事業は復帰するまで実施されることはなかった。また、琉球郵政庁には特定郵便局は存在しなかった。

沿革

1955年頃の那覇中央郵便局内
  • 1945年8月20日 沖縄諮詢会発足(逓信部長に平田嗣一が就任)。
  • 1945年9月4日 沖縄諸島内で肉親の安否を問い合わせる郵便物の無料取り扱いを始める。
  • 1946年7月1日 沖縄諸島内の郵便料金有料化。
  • 1946年9月10日 沖縄諸島と本土間の郵便再開。
  • 1947年5月15日 国際郵便再開。
  • 1948年7月1日 初の正刷切手が発売される。
  • 1950年4月1日 全域を管轄する「琉球郵政庁」が発足。
  • 1951年8月13日 琉球臨時中央政府郵政局となる。
  • 1952年4月1日 琉球政府郵政局となる。
  • 1953年4月1日 琉球政府の機構改革に伴い、工務交通局の一部門となる。
  • 1958年9月16日 法定通貨が米ドルになったことに伴い、切手もドル表示になる。
  • 1960年7月1日 郵政特別会計制度が設けられる。
  • 1960年11月1日 切手に英語名の「Ryukyus」が併記されるようになる。
  • 1961年8月1日 琉球政府の機構改革に伴い、建設運輸局の外局「郵政庁」となる。
  • 1965年8月1日 琉球政府の機構改革に伴い、通商産業局の外局「郵政庁」となる。
www.jiyuushikan.org/jugyo/jugyo93.html - キャッシュ

教科書が教えない領土問題

幻の尖閣切手
琉球政府郵政庁職員たちの気概の物語


■ 不思議な切手

切手に注目してください。
  1. 何が描かれていますか? 疑問に思うことはありますか?
  2. どんな場所ですか?
  3. 鳥の名前は何だと思いますか?


 この切手は、1972年4月14日、祖国復帰直前の沖縄で発行された海洋シリーズ第3集の『海と海鳥と島』という切手です。切手にはこの島がどこなのか、海鳥の名前は何なのかまったく示されていません。どうしてでしょうか。


 この島がどこなのか長年の謎でしたが、沖縄県石垣市の尖閣諸島を研究する国吉真古(まさふる)氏の聞き取り調査によって、尖閣諸島と判明しました。
 実をいうと、描かれている鳥は「アホウドリ」です。アホウドリは伊豆諸島の鳥島と沖縄の尖閣諸島でのみ繁殖が確認されている鳥です。
 

 沖縄の海でアホウドリが生息する島といえば、尖閣諸島以外にあり得ません。この琉球切手は、わが国固有の領土である尖閣諸島をテーマにした唯一の切手なのです。
切手の発行は国家の意思を表すことがあります。青く美しい海に浮かぶ尖閣諸島。その南小島の切り立った断崖でアホウドリが飛翔し、戯れている姿を描いた「尖閣切手」。この切手は、尖閣諸島が日本の沖縄に属していることを明確に主張しています。







 尖閣切手は、沖縄の祖国復帰(5月15日)の目前、昭和47年(1972年)4月14日に発行されました。琉球政府郵政庁の職員たちが、この時期に発行に踏み切った理由は何だったのでしょうか。

 この切手が日の目を見るまでには、職員たちの知られざる苦労とそれをはねのける強い意志が存在したのです。

 わが国の領土を守らんとする揺るぎない決心で極秘のプロジェクトを遂行した職員たちの気概の物語を紹介しましょう。

◆◆◆

 昭和20年(1945年)、大東亜戦争に敗れた日本は連合国(GHQ)に占領されました。苦難の占領期を終え、昭和27年(1952年)4月28日にわが国は独立を回復しますが、沖縄県はアメリカの直接統治下に置かれました。当然、尖閣諸島も沖縄の1部としてアメリカの施政権下にあります。
 沖縄の郵政事業は昭和23年(1948年)に始まります。はじめは無料だった郵便配達が有料制になり、「琉球郵便切手」が生まれました。沖縄の名だたる画家たちが原画を描き、南国風のデザインと鮮やかな色彩で切手コレクターの間で人気を博します。「沖縄美術の珠玉」と称されたほどです。日本への復帰で琉球郵便が廃止になるまで、261種を発行しました。

■ 台湾・中国、突如の領有権主張

 1960年代、折から石油資源の枯渇が危惧されるようになりました。そこで、世界各地で新たな油田を発見しようと調査が進められていました。
 昭和44年(1969年)のことです。国際連合のアジア極東経済委員会による海洋調査で、尖閣諸島の周辺にはイラクの埋蔵量に匹敵するほどの大量の石油が存在すると報告されたのです。

 尖閣諸島は、明治28年(1895年)1月14日に正式にわが国の領土に編入されました。明治18年(1885年)以降、日本政府が綿密な現地調査を行なった結果、無人島であり、かつ、清国(中国)の支配が及んでいないことを確認した上での閣議決定です。
 尖閣諸島がわが国固有の領土であることは、歴史的にも国際法上も疑いようがありません。
 ところが、尖閣諸島周辺に大量の石油が埋蔵されていることが判明すると、海域を接する台湾の国民党政府と中国は、突如、領有権を主張しはじめたのです。
 明けて、昭和45年(1970年)、尖閣諸島をめぐる状況はますます緊迫していきました。200以上もの市町村や経済団体によって「尖閣を守る会」が組織され、大規模な運動がはじまりました。

 これを受けて、琉球政府は尖閣諸島の「領土宣言」を発し、琉球立法院も「尖閣防衛」の決議をしています。琉球政府通産局の砂川局長は、琉球政府が権限を持っている間に、尖閣周辺の石油鉱業権を許可したいと、「尖閣開発KK」の創設に奔走しました。
 一方、沖縄返還にむけての日米協議は、尖閣諸島の帰属をめぐって紛糾しました。なぜなら、米国政府が尖閣を返還協定内に含めることを渋ったからです。日本側は米国の態度に怒りました。沖縄開発庁の山中定則長官らが尽力して、最終的には無事に返還されることになりました。

 そして、ついに昭和46年(1971年)6月、「沖縄返還協定」が調印の運びとなり、翌年5月に沖縄県が祖国に復帰することが決定しました。ところが、この協定調印を挟んで、4月には台湾の国民政府が、12月には中国が尖閣諸島の領有権を正式に表明したのです

■ 尖閣切手を発行せよ!

 中・台の理不尽な領有権主張は、国民の怒りを招きました。なかでも沖縄県民の危機感は尋常ではありません。琉球切手の発行を職務とする琉球郵政庁の職員たちも思いは同様です。

 「琉球郵政庁が切手発行の権能を有している間に、尖閣諸島を題材にした切手を発行したい」

 切手の発行によって、尖閣諸島がまぎれもなく日本の領土であるということを刻印したいとの強い思いが湧き上がってきたのです。

 そこで、琉球郵政庁は、尖閣諸島の1つである魚釣島の「地図切手」の発行を計画します。原画を滞りなく作成し、大蔵省(現・財務省)印刷局に切手の印刷を依頼しました。印刷も仕上がり、あとは琉球郵政庁に向けて発送を待つばかりという時、その地図切手の存在が外務省の知るところとなりました。すると、何と外務省は「中国や台湾などを刺激する」として、発行禁止を強く要求してきたのです。

 この時期、中・台は不当な領有権主張をますます強めており、日米両政府は両国を刺激しないように神経質になっていました。

 「こんな時に尖閣諸島を描いた切手などとてもじゃないが発行できない。これで外交がこじれてしまったら一大事だ」ということでしょう。
沖縄はまだ返還されておらず、米国統治下にあったのですから、琉球政府に対する外務省の要求は米国への内政干渉にあたります。しかし、順調な沖縄返還を望んでいた米国政府が目くじらを立てなかったため、琉球政府は切手の発行を断念せざるを得ませんでした。
 これに切歯扼腕したのが、郵券課長の浜元暁男氏でした。「尖閣をテーマとした切手発行を、なぜ日本政府は嫌がるのか。長い目で見るなら、ここで尖閣の領有権を明確にしておく方が得策ではないか!」


海軍予科練出身で剛胆な性格だった浜元課長は、「それならば、せめて尖閣を舞台にした『海洋シリーズ切手』を発行したい」と思いました。
折しも復帰3年後の昭和50年(1975年)に「沖縄国際海洋博覧会」の開催が決定されていました。この海洋博記念を名目にして海洋シリーズを企画し、これに尖閣諸島を盛り込めば、復帰直前の混乱の中で当局のチェックをごまかせるのではないか、と考えたのです。

「日本政府が尖閣切手を認めないというなら、巧妙にカムフラージュして、推し進めるだけだ。政府は『琉球政府が勝手に発行した』とすればよい」と浜元課長は強気です。こうして、郵政庁首脳幹部だけの「極秘プロジェクト」による尖閣切手の発行計画がスタートしました。

 ただし、万一、情報が洩れて日本政府の知ることになったら、すべては水泡に帰してしまいます。プロジェクトの遂行には、細心の注意が必要でした。
海洋シリーズ切手は、次の3つで構成されることになりました。
  • 第1集:「島と海」(昭和47年3月21日発行)
  • 第2集:「珊瑚礁」(同年3月30日発行)
  • 第3集:「海と海鳥と島」(同年4月14日発行)
第1集「島と海」は、実は「魚釣島と尖閣の海」の図柄を計画しました。
「海上にまっすぐ突き出た岩石の島だけでは、どこの島なのか誰も分からない。何か言われたら、最後まで知らぬ存ぜぬで押し通すぞ」と浜元課長。
 切手の原画を描くためには写真が必要です。そこで、峻険な岸壁が鋸立する魚釣島の雄姿を撮影するために、2人の部下を2週間の出張に出しました。
 しかし、天候不順で部下たちは尖閣諸島までたどり着けず、写真を撮ることができませんでした。この秘策は失敗、やむをえず第1集の題材は「慶良間諸島の海と島」に変更となりました。

 切手の図案を思案しているところに大ニュースが飛び込んできました。昭和46年(1971年)、琉球大学調査団が、国指定の特別天然記念物で絶滅危惧種のアホウドリが尖閣諸島の南小島で生息しているのを発見したのです。この種は地球上で、伊豆諸島の鳥島(東京都)にしか生息していないとされていたので、沖縄中が沸きました。
 そこで、浜元課長はアホウドリを描いた切手を発行することで間接的に尖閣諸島が沖縄に属していることを主張できると考えました。


浜元課長は第3集の原画を画家の安次富(あしとみ)長昭氏(現・琉球大名誉教授)に依頼します。
そして、描く島は「尖閣諸島の南小島」、描く鳥は「アホウドリなり」と注文をつけました。

しかし、珍しい鳥なので安次富画伯は実物を見たことがありません。そこで、郵政庁長だった渡嘉敷真球(しんきゅう)氏がじきじきにアトリエまでアホウドリの剥製を届けにきます。さらに、アホウドリを発見した琉球大調査団団長の池原貞雄教授からこの時に撮った写真を借り、調査団メンバーの新納(にいろ)義馬教授から尖閣諸島の情景を詳細に聞き取りました。
尖閣諸島の紺青の海、波洗う峻険な南小島の断崖、その上空を舞い、岩場で戯れるアホウドリ。安次富画伯は資料を元に描いていきます。完成した「海と海鳥と島」、すなわち「尖閣の海とアホウドリと南小島」の原画は、目が覚めるような鮮やかさで素晴らしい出来映えでした。

 第3集の極秘プロジェクトは着々と進展しました。切手審議会を問題なくパスし、大蔵省印刷局へ送付、日本政府からのクレームもなく250万部が印刷されました。尖閣切手は、誰もが1般的な「海と鳥と島」が描かれていると疑いませんでした。浜元課長の作戦は功を奏しました。そして、4月14日、尖閣切手は予定通り発行されました。それは沖縄の祖国復帰、すなわち琉球郵政庁消滅の1ヶ月前のことでした。
尖閣諸島の研究者・国吉真古(まさふる)氏は次のように述べています。

 「現政府の尖閣への対応は期待外れ。当時の職員は領土に対する強い思いがあったはずだ。多くの人々に認識を深めてほしい」
身の危険も顧みず、尖閣諸島を守るために極秘プロジェクトを成功させた浜元氏をはじめとする琉球郵政庁の職員たち。その愛国心・愛郷心の確かさに心打たれます。南国風の色鮮やかな尖閣切手は、尖閣諸島の日本領有を主張し続けているのです。

〈参考文献〉

  1. ◆尖閣諸島文献資料編纂会
    『尖閣研究ー高良学術調査団資料集上下』(データム・レキオス)2007年
  2. ◆読売新聞2012年5月11日
    「『尖閣』秘した琉球切手」
  3. ◆琉球新報 2010年11月1日
    論壇「尖閣諸島の琉球政府切手 日本政府の〝干渉〟で幻に」
nippon-end.jugem.jp/?eid=4019 - キャッシュ
2016年2月22日 - 参考:幻の尖閣切手発行顛末~海洋シリーズ第三集「海と海鳥と島」~國吉真古) 実を いうと、描かれている鳥は「アホウドリ」です。アホウドリは伊豆諸島の鳥島と沖縄の尖閣諸島でのみ繁殖が確認されている鳥です。 沖縄の海でアホウドリが ...
www.asaho.com/jpn/bkno/2010/1115.html - キャッシュ
尖閣切手とビデオ 2010年11月15日. 切手業者から米軍統治下の琉球郵便切手を 入手した。1972年4月14日発行の5セント切手。沖縄返還の直前、表向きは海洋 シリーズ第3集『海鳥と海と島』として発行されたものである。 図柄には9羽のアホウ鳥が  ...

琉球政府は、1970年9月17日、「尖閣列島の領土権について」という声明を発表した

$
0
0
そのような中で、包括的に尖閣諸島の日本帰属論を練り上げたのは琉球政府であった。琉球政府は、1970年9月17日、「尖閣列島の領土権について」という声明を発表した。


[文書名] 尖閣列島に関する琉球立法院決議および琉球政府声明

[年月日] 1970年8月31日

[出典] 日本外交主要文書・年表(2),984-987頁.琉球立法院事務局「会議録」.「季刊沖縄」第56号,180-2頁.
[備考] 琉球政府声明は1970年9月17日

[全文]

1.米政府あて決議
尖閣列島の領土権防衛に関する要請決議
 尖閣列島の石油資源が最近とみに世界の注目をあび,県民がその開発に大きな期待をよせているやさき,中華民国政府がアメリカ合衆国のガルフ社に対し,鉱業権を与え,さらに,尖閣列島の領有権までも主張しているとの報道に県民はおどろいている。
 元来,尖閣列島は,八重山石垣市字登野城の行政区域に属しており,戦前,同市在住の古賀商店が伐木事業及び漁業を経営していた島であって,同島の領土権について疑問の余地はない。
 よって,琉球政府立法院は,中華民国の誤った主張に抗議し,その主張を止めさせる措置を早急にとってもらうよう院議をもって要請する。
 右決議する。
  一九七〇年八月三十一日
             琉球政府立法院
 アメリカ合衆国大統領
 アメリカ合衆国国務長官     あて
 琉球列島高等弁務官


2.日本政府あて決議
尖閣列島の領土権防衛に関する要請決議
 琉球政府立法院は,一九七〇年八月三十一日別紙のとおり「尖閣列島の領土権防衛に関する要請決議」を採択した。
 本土政府は,右決議に表明された沖繩県民の要請が実現されるよう,アメリカ合衆国及び中華民国に対し強力に折衝を行なうよう強く要請する。
 右決議する。
  一九七〇年八月三十一日
             琉球政府立法院
  内閣総理大臣
  外務大臣         あて
  総理府総務長官


3.琉球政府声明,尖閣列島の領土権について 1970年9月17日 「季刊沖縄」第56号,180-2頁.
 琉球政府立法院は,尖閣列島が我が国固有の国土であることから,他国のこれが侵犯を容認することは,日本国民である県民として忍びず,ここに「尖閣列島の領土権防衛に関する決議」を行ないました。
 最近,尖閣列島の海中油田が話題を呼び世界の石油業者が同島を注目するようになりましたことは御承知のとおりであります。

 報道によりますと台湾の国民政府がパーシフィックガルフ{ーにママとルビ}社に鉱業権を与え,大陸ダナ条約に基づき,尖閣列島は国民政府の領有であると主張しているとのことであります。このことは明らかに領土権の侵害を意図するものであり,看過できない由々しい問題であると思います。

 琉球列島の範囲に関しては,アメリカ合衆国の統治基本法たる琉球列島の管理に関する行政命令前文は,「合衆国は,対日平和条約の第三条によって領水を含む琉球列島(この命令において,「琉球列島」とは,平和条約の同条による合衆国のすべての権利及び利益を日本国に譲渡した奄美群島を除く北緯二十九度以南の南西諸島を意味する。)」と規定してあります。即ち北緯二十八度東経百二十四度四十分の点を起点として北緯二十四度東経百二十二度北緯二十四度東経百三十三度北緯二十七度東経百三十一度五十分北緯二十七度東経百二十八度十八分北緯二十八度東経百二十八度十八分の点を経て起点に至る(米国民政府布告第二十七号)と規定し,琉球列島米国民政府及び琉球政府の管轄区域を前述の地理的境界内の諸島,小島,環礁及び岩礁並びに領水に指定すると規定されている。

 因みに,尖閣列島は,歴史的には十四世紀の後半ごろにはその存在を知られす{前2文字ママとルビ}なわち,一三七二年から一八六六年の約五百年間,琉球の中山王朝と中国とは朝貢,冊封の関係にあったため,朝貢船,冊封船が中国大陸の福州と那覇との間をしばしば往来し,尖閣列島はこれらの船舶の航路上のほぼ中間に位置していた。

 しかも列島中の魚釣島及びその附近に点在する小島,岩島は,尖岩突起し,航路の目標としては,絶好のものでありました。
 このように中山伝信録,琉球国志録などのような歴代冊封使録,指南広義付図,中山世鑑などに尖閣列島の島々の名があらわれています。
 当時には島々の名称は,釣魚台,黄尾嶼,赤尾嶼といった名称であらわされ,沖縄の先島では,中国名の釣魚台,黄尾嶼をそれぞれユクン,クバシマ,赤尾礁{礁にママとルビ}を久米島に近いところから久米赤島と呼ばれてきました。

 その他久場島を,チャウス島,魚釣島を和平山とも呼んできました。尖閣列島は,種々の歴史上の文献に記され,また,多くのひとびとによってさまざまに呼称されてきたが,同列島は明治二十八年に至るまで,いずれの国家にも属さない領土としていいかえれば国際法上の無主地であったのであります。

 十四世紀以来尖閣列島について言及してきた琉球及び中国側の文献のいずれも尖閣列島が自国の領土であることを表明したものはありません。これらの文献はすべて航路上の目標として,たんに航海日誌や航路図においてかあるいは旅情をたたえる漢詩の中に便宜上に尖閣列島の島嶼の名をあげているにすぎません。本土の文献として林子平の「三国通覧図説」があります。これには,釣魚台,黄尾嶼,赤尾嶼を中国領であるかの如く扱っています。しかし,三国通覧図説の依拠した原典は,中山伝信録であることは林子平によって明らかにされています。

 かれはこの伝信録中の琉球三六島の図と航海図を合作して,三国通覧図説を作成いたしました。このさい三六島の図に琉球領として記載されていない釣魚台,黄尾嶼などを機械的に中国領として色分しています。しかし伝信録の航海図からはこれらの島々が中国領であることを示すいかなる証拠も見出しえないのであります。……航海図もあくまでも航路の便宜のために作成されたものであり領土を意識して書かれたものではありません。

 明治五年,琉球王国は琉球藩となり,明治七年内務省の直轄となりました。
 明治十二年県政が施行され,明治十四年に刊行,同十六年に改訂された内務省地理
局編纂の大日本府県分割図には,尖閣列島が,島嶼の名称を付さないままあらわれ,尖閣列島は明治十年代の前半までは無人島であったが,十年代の後半十七年頃から古賀辰四郎氏が,魚釣島,久場島などを中心にアホウ鳥の羽毛,綿毛,ベッ甲,貝類などの採取業を始めるようになったのであります。
 こうした事態の推移に対応するため沖縄県知事は,明治十八年九月二十二日,はじめて内務卿に国標建設を上申するとともに,出雲丸による実地踏査を届け出ています。

 さらに,一八九三年(明治二十六年)十一月,沖縄県知事よりこれまでと同様の理由をもって同県の所轄方と標杭の建設を内務及び外務大臣に上申してきたため,一八九四年(明治二十七年)十二月二十七日内務大臣より閣議提出方について外務大臣に協議したところ,外務大臣も異議がなかった。
 そこで一八九五年(明治二十八年)一月十四日閣議は正式に,八重山群島の北西にある魚釣島,久場島を同県の所属と認め,沖縄県知事の内申通り同島に所轄標杭を建設せしめることを決定し,その旨を同月二十一日県知事に指令しております。

 さらに,この閣議決定に基づいて,明治二十九年四月一日,勅令十三号を沖縄県に施行されるのを機会に,同列島に対する国内法上の編入措置が行なわれております。沖縄県知事は,勅令十三号の「八重山諸島」に同列島が含まれるものと解釈して,同列島を地方行政区分上,八重山郡に編入させる措置をとったのであります。沖縄県知事によってなされた同列島の八重山郡への編入措置は,たんなる行政区分上の編入にとどまらず,同時にこれによって国内法上の領土編入措置がとられたことになったのであります。
 次に編入された尖閣列島の範囲でありますが,明治二十八年一月の閣議決定は,魚釣島と久場島に言及しただけて,尖閣列島は,この島の外に南小島及び北小島と,沖の北岩,沖の南岩ならびに飛瀬と称する岩礁,それに久米赤島からなっておりますが,閣議決定はこれらの小諸島及び岩島について全くふれていません。しかし,久米赤島を除く他の小諸島及び岩島は,国際法上当然わが国の領有意思が及んでおります。
 久米赤島の場合は,もっとも近い久場島からでも約五十マイル離れていますので,さきに述べた小諸島及び岩島とは別個に領有意思を表明する必要がありました。前述の閣議決定が,魚釣島,久場島にふれながら,なぜ久米赤島に言及しなかったかは,明らかではありませんが明治十八年及び二十三年の沖縄県知事の上申は,魚釣島及び久場島とともにつねに久米赤島にも触れており,また,明治二十八年の閣議において原案のとおり決定をみた閣議提出案には県知事の上申通りに沖縄県の所轄と認むるとして,久米赤島をとくに除外する理由は何も述べていません。

 魚釣島,久場島の編入経緯に関する公文書記録をまとめている日本外交文書においても,久米赤島の編入は,当然に編入されたものとして扱われております。尖閣列島はこのような経緯を辿っております。

 そもそも,尖閣列島は八重山石垣市字大川在住の古賀商店が,自己の所有地として戦争直前まで伐木事業と漁業を営み行政区域も石垣市に属していることは,いささかの疑問の余地もありません。具体的に説明いたしますと,尖閣列島中の南小島の地番は,石垣市字登野城南小島二三九〇番地で地積は三二町七反三畝一歩,所有者は古賀善次,同じく古賀善次所有の字登野城北小島二三九一番地の二六町一反歩同じく字登野城魚釣島二三九二番地の三六七町二反三畝同じく登野城久場島二三九三番地の八八町一反三畝一〇歩それから官有地として字登野城大正島二三九四番地の四町一反七畝四歩以上が公簿に記載されているのであります。

 このように歴然たる事実を無視して国府が尖閣列島の領有を主張することは,沖縄の現在のような地位に乗じて日本の領土権を略主しようとたくらむものであると断ぜざるを得ません。

 残念ながら琉球政府には外交の権限がなくどうしても日本政府並びに米国政府から中華民国と交渉をもってもらう外ありません。よって両政府あての要請決議を行った次第であります。
 わが国の国土を保全する立場から,何卒日本政府におかれても,アメリカ合衆国政府及び中華民国政府と強力な折衝を行なうようお願いいたします。


イメージ 1

竹富島 貴宝館 蔵

イメージ 2
竹富島 貴宝館 蔵

波照間 燐

$
0
0

イメージ 1




イメージ 2

グアノ

   
グアノ
ナウルのグアノ採掘跡地
グアノ (guano) とは、珊瑚礁に、海鳥死骸・エサのの殻などが長期間(数千年から数万年)堆積して化石化したものであり、肥料の資源として利用される。主要な産地は南米チリペルーエクアドル)やオセアニア諸国(ナウル等)である。グアノの語源はケチュア語の「糞」でスペイン語経由で英語に入った[1][2]

種類

グアノには「窒素質グアノ」と「燐酸質グアノ」の2種類がある。前者は降雨量・湿度の低い乾燥地帯に形成されたもので、多くの窒素鉱物を含有する。後者は熱帯亜熱帯など比較的降雨量・湿度の高い地域に形成され、長年の降雨によって窒素分が流出してリン酸分が濃縮されたものである。
いずれも近代化学工業(化学肥料)には欠かせぬものであり、領有する島嶼部に多量のグアノを有したペルーでは莫大な量が採掘されてヨーロッパに輸出された。この利益は一時的にペルーに好景気と社会インフラの発展をもたらしたが、資源の枯渇により経済の破綻を招いた。なお世界の窒素肥料の原料はその後チリ硝石、さらには20世紀初頭のドイツにおいて開発された化学的窒素固定へと変遷する。
燐酸質グアノはリン鉱石が発見されるまで、最も主要なリン資源であった。南洋の島々に多く、資源としては大量に存在するものではないため、かつての採掘地の多くはすでに掘り尽くされ、枯渇している。

歴史

かつては、グアノをめぐって戦争が起こった事(グアノ戦争、チリ対ボリビアの太平洋戦争)があった。

バット・グアノ

海鳥由来のグアノとは別に、洞窟内に生息するコウモリ・体毛、洞窟内の生物の死骸が堆積して化石化したものをバット・グアノと呼ぶ。量は大してないため観賞植物や自家菜園用の肥料として販売されている。

産出地(過去の産出地も含む)






波照間島の燐鉱採掘|波照間島コラムちゃんぷる~ - やいまねっと

jaima.net/modules/hateruma/index.php?content_id=3 - キャッシュ
燐鉱の島. 日本最南端の有人島で知られる波照間島だが、八重山では唯一、鉱石を 採掘した島でもある、鉱石の採掘は戦前の一時期、島の経済を潤し、地域活性化に 一役買った。 島の人たちは、「リンコウ」と言えば「燐鉱」を想起する。島の北部にある、 ...




採掘が本格化

 採掘許可は1933年(昭和8)11月に恒藤規隆氏が受け、1935年(昭和10)6月には塩谷栄二氏が受けて、両者による燐鉱採掘が始まった、採掘面積は塩谷氏の場合、16万坪と広大である。
 同氏に関しては試掘調査後の1934年(昭和9)4月以降、朝日化学肥料株式会社との間で採掘協定が締結され、朝日化学肥料(株)が採掘に乗り出すことになった。
 同社の佐古田政太郎社長は、1934年(同9)7月9日に波照間島を訪れ、採掘の状況を視察している。朝日化学肥料(株)と同様に採掘に着手することになった恒藤氏は、燐鉱の本格的な採掘に際し次のように語る。
 「波照間の燐鉱はとてもいい、含燐歩合からいふと質のよい硬度燐と中度燐、下等燐の3段に分かれているが、燐層も相当豊富らしく波照間の全面積30万坪の間に点々と埋蔵されている。今後、何年分の燐があるか、これからまだ掘り下げて調査してみなければ分からないが、質のいい燐が可なりあるといふことだけは言へる」と太鼓判を押す。




時代は大きく戻ります。波照間では戦前の一時期、2箇所で燐の採掘が行われていました。
東北部の鉱山は、港から製糖工場のほうに抜ける道の途中、一周道路との交差点の辺りにあったそうです。西北部の鉱山の跡は今でも見ることができます。「ぶりぶち公園」の入り口にある池に気付く人は結構多いでしょうが、その池の水が湧き出している崖を注意して見ている人は少ないのではないでしょうか。そこには半分以上を石積みで隠しているものの、ぽっかりと開いた坑道の入り口があります。
波照間で燐鉱山が発見されたのは1921年頃で、1933年から本格的な採掘事業が始まりました。島の東北部と西北部で2つの会社が採掘を行い、肥料や薬品製造の原料として尼崎方面に出荷されたそうです。採掘は1939年頃には最盛期を迎え、島内外から集まった200名ほどの作業員が働いていました。そして島はにわか景気に沸いた、といいます。
しかし、太平洋戦争が始まって輸送手段が無くなると、採掘は中止に追い込まれ、1943年には採掘会社は廃業。採掘された鉱石の半分は放置されたまま会社は引き揚げてしまいました。残った鉱石は島の道路に砂利として敷かれ、雨が降る度、その養分が土壌に溶け出し、農地の土壌を豊かにしたそうです。
八重山に行くと、よく、波照間産の黒糖が八重山で一番美味しいと聞きますが、訳はサトウキビが育つ島の土壌にあるといいます。波照間は島全体の土壌に燐の成分が含まれているため、養分が豊富であるというのです。それはおそらくこのことを指していたのだと思われます。
ぶりぶち公園の鉱山跡の湧水は島の簡易水道の水源としても使われていたようです。現在では波照間製糖の管轄下に置かれているということで、製糖工場の作業に使われているようです。
このように、「ぶりぶち公園」一帯は4000年の昔から現在に至るまで、島の歴史に深く係わり続けている地域なのです。
www.city.ishigaki.okinawa.jp/100000/100500/.../detail.php?... - キャッシュ
波照間鑛發見:紙面画像. 1921/03/01 八重山新報 第4面 紙面画像 現代仮名遣い テキスト 旧仮名遣いテキスト. 波照間鑛發見 紙面画像. 波照間に燐鉱発見八重山 新報 大正十年三月一日 本郡波照間島字西留に燐鉱あるを発見し、東京市芝区内田眞  ...
画像
.
ameotoko.cocolog-nifty.com/note/2008/07/1_fed7.html
鉱石採掘事業の詳細とレールに関する写真は「八重山歴史読本」(南山舎)の「波照間島の燐鉱採掘」か、そのほぼ全文を掲載していると思われる以下のURLの記事を参照し ていただくとして、私の興味の焦点は、やはり当然の事ながら、この" ...



      ■島が一番賑わった頃
波照間島で島が一番賑わったのは、1935-1945年ごろである。燐鉱石の採掘の採掘がはじまり、カツオ漁が盛んになったころが一番島が豊であったと言われている。
そのころは、降雨量も何故だか多く、豊作に恵まれ、農産物も豊だったという。


■燐鉱石の採掘
1933年から燐鉱の採掘が栄えた。この頃、島は燐採掘でにぎわい、宮古、本島などから多くの人が出稼ぎ労働者として来島したという。
今まで、島の人たちは、農業や近隣の漁業でしか収入を得ていなかった。しかし、同時期に栄えたカツオ漁とともに、燐鉱の採掘業のおかげで、島は大変豊かになった。
島の若者たちは、夏はカツオ漁。カツオ漁の終わった冬は燐鉱採掘場で働いた。最盛期には作業員は200名ほどいた。
また、波照間島の人口は急増し、1931年に1283人であったのに対し、燐鉱採掘が最盛期を迎えた1939年には1422人を超えている。
何故、波照間島で燐鉱がとれたのか。それは、波照間島は鳥が多く、長い年月をかけ、鳥の糞尿が石灰岩石に堆積し変化して燐鉱石になったものといわれている。
燐鉱石の採掘は波照間島の北部と、北西部の2ヶ所で行われていた。


しかし、1941年。太平洋戦争が始まると、沖合には米軍の艦隊や潜水艦が現れるようになると、燐鉱の島外への搬送が難しくなった。掘り出された燐鉱が積み上げられたままになり、1943年採掘場は廃止となった。積み残された燐鉱石は、道路を補修するのに使われていたという。

[転載]尖閣諸島に関する資料

$
0
0
櫻井よし子が語る歴史を学ぶ重要性






イメージ



イメージ



尖閣諸島に関する資料の委託調査報告書


平成27年度報告書に掲載された資料例

  1. 「[写]魚釣、久場、久米赤島回航報告書」 1885年11月2日
  2. 「[写]魚釣島外二島巡視取調概略」 1885年11月4日
  3. 「南航日記」内務大臣 山縣有朋 著 1886年5月
  4. 「甲第一号 無人島久場島魚釣島之義ニ付伺」1890年1月13日
  5. 『大東島取調書』所収「大東島支配方ノ件」 [沖縄県庁編] [1903年]
  6. 「漂流者清国より還る」 『九州日日新聞』1893年9月20日付
  7. 「野田山隈諸氏の一行」 『九州日日新聞』1893年10月24日付
  8. 『熊本県民井澤弥喜太外二名清国ヘ漂流シタル節救助シタル同国地方官ヘ謝意伝達之件 明治二十六年』所収「別紙 [右照覆]」1894年1月13日
  9. 『沖縄県下八重山群島ノ北西ニ位スル久場島魚釣島へ標杭ヲ建設ス』所収「秘別第一三三号 標杭建設ニ関スル件」 1895年1月12日
  10. [閣議決定 指令案 標杭建設ニ関スル件請議ノ通]内閣作成 1895年1月14日、1月21日
  11. 『勅令第百六十九号』 葉煙草専売法ヲ施行セサル地方指定 1897年5月31日
  12. 『予と燐鉱の探険』恒藤規隆著 1936年
  13. 『沖縄県治要覧』 沖縄県編 1916年4月
  14. 「尖閣列島の珊ゴ漁業 古賀商店へ許可」 1935年7月3日付 先島朝日新聞
  15. 『琉球全図』赤嶺康成/編 1958年4月
  16. 『鹿児島県水産試験場紀要第2集-東シナ海におけるサバはね釣り船の操業状況-』 鹿児島県水産試験場編 1960年9月
  17. 『琉球水産研究所 事業報告書 1964/1965年度』 琉球水産研究所編 [1966年]
  18. 『尖閣列島写真集』 琉球政府出入管理庁/撮影 1970年7月
  19. 『復命書』 比嘉健次著(出入管理庁警備課長) 1970年7月24日

1.「[写]魚釣、久場、久米赤島回航報告書」 1885年11月2日

所蔵機関:国立公文書館
尖閣諸島の領土編入(1895年)の10年前、沖縄県が実施した現地調査の際に提出された、沖縄県が雇用した日本郵船会社の出雲丸船長である林鶴松による尖閣諸島の回航報告書(写)。同諸島はこれまで外国船にも度々観測され、各水路誌にも詳述されているとし、水路誌中の尖閣諸島における記述を紹介しながら、実地調査において同船長が確認した事項を併せて記載している。

2.「[写]魚釣島外二島巡視取調概略」 1885年11月4日

所蔵機関:国立公文書館
1885年の沖縄県による尖閣諸島現地調査の際に報告された、沖縄県五等属(県職員)石澤兵吾による尖閣諸島現地調査復命書(写)。石澤以下調査団6名は魚釣島に上陸、同島の地勢及び開拓の可否(島の植生・生息する動物等)を調べ、特に島の地質とアホウドリの群生する様子を詳述し、岩石数点とアホウドリ数十羽(附卵数百個)を沖縄県庁に持ち帰った。
魚釣島を出帆後、久場島を艦上より望見、大正島(久米赤島)は暗夜の為確認できなかったことを報告した。

3.「南航日記」内務大臣 山縣有朋 著 1886年5月

所蔵機関:国立公文書館
山縣有朋内務卿(大臣)の沖縄諸島、五島列島、対馬巡回視察日誌。沖縄県巡視の命を受けた山縣は1886年2月26日に新橋を出発、各地を巡視し3月31日に帰京し復命書を内閣に提出し回覧に供した。

4.『帝国版図関係雑件』所収「沖縄県久米赤島、久場島、魚釣島ヘ国標建設ノ件 明治十八年十月」より「甲第一号 無人島久場島魚釣島之義ニ付伺」 沖縄県知事[丸岡莞爾] 1890年1月13日

所蔵機関:外務省外交史料館
1885年に沖縄県が尖閣諸島を現地調査してから5年が経った後、同県知事から内務大臣に提出された伺書。尖閣諸島はこれまで無人島のためその所轄も確定していなかったが、近年(漁業を営むものが現れ)水産取締の必要が出たため、八重山島(石垣市)の役所から同役所の所轄と定めたい旨申し出が来ていることを報告し、その上で沖縄県としても尖閣諸島を八重山諸島の管轄に定めたい旨の伺いを立てたいとする沖縄県知事伺書写。「国標建設に関する沖縄県知事上申書(「甲第百十一号」)」の添付。

5.『大東島取調書』所収「大東島支配方ノ件」 [沖縄県庁編] [1903年]

所蔵機関:那覇市歴史博物館
「大東島支配方ノ件」という1891年12月に沖縄県庁で作成された沖縄県庁文書(訓令案)の写。大東島を那覇役所、尖閣諸島(阿根久場島)を八重山島役所の所轄と心得る旨の訓令案が記載されている。
収録誌の「大東島取調書」には、大東島調査報告書等、多数の公文書写しが付属資料として収録されている。

6.「漂流者清国より還る」 『九州日日新聞』1893年9月20日付

所蔵機関:国立国会図書館
熊本県の地元紙「九州日日新聞」が報じた琉球(沖縄県)八重山島(石垣市)尖閣群島(諸島)に出稼ぎに行った同県人井澤弥喜太の清国への漂流と無事帰還を伝える記事。
井澤以下鹿児島県人である満石良助(船頭)、有川岩助(同)の3名は石垣島より尖閣諸島へ出帆したが、暴風に遇い清国に漂着。その後、清国地方官保護の下、長崎港に送還された。この記事以降、九州日日新聞では「漂流談」と題する井澤のインタビュー記事を5回に亘って連載した。

7.「野田山隈諸氏の一行」 『九州日日新聞』1893年10月24日付

所蔵機関:国立国会図書館
熊本県の地元紙『九州日日新聞』が報じた琉球新報からの引用記事。尖閣諸島近海における新漁場開拓を目指す熊本県人野田正ら一行が石垣島に到着後、同魚釣島へ向け出発した事を伝えている。
記事の背景を略述する。野田正、山隈惟勇ら熊本国権党に属する同県人らは1893年6月から7月にかけて沖縄諸島を探険し、熊本に帰県。その後8月に熊本を出発、笹森儀助著『南島探験』によると8月末日には那覇港に到着し、9月初頭には八重山諸島ヘ出帆した。記事は八重山石垣島に到着後の動向を記している。

8.『熊本県民井澤弥喜太外二名清国ヘ漂流シタル節救助シタル同国地方官ヘ謝意伝達之件 明治二十六年』所収「別紙 [右照覆]」

所蔵機関:外務省外交史料館
熊本県人井澤弥喜太らは、石垣島より尖閣諸島へ出帆したが、暴風に遇い清国に漂着した。その後、同国地方官らによって保護・取り調べを受け、外交ルートを通って日本に無事送還された。外務大臣の命を受け、在上海日本総領事館は、清国側の関係者に感謝の意を表すことになった。本資料は、清国地方官の陳氏が在上海日本総領事館の発出した感謝状を受け取り、謝意を関係者に伝達した旨を、光緒19年12月7日(1894年1月13日)付の書簡で在上海日本総領事館の山座氏宛に回答[右照覆]したことを記録している。
本文中には在上海日本総領事館の発出した感謝状の内容がそのまま引用され、井澤らが「八重山島」から「胡馬島」(尖閣諸島)に向かった際に、暴風に遭遇し「清国沿海」に漂着したことが記されている。井澤らが「胡馬島」を目的地として航行したことを清国側では誰も問題視せず、そのまま日本側の感謝状を受理し、関係諸官に伝達したことがわかる。

9.『沖縄県下八重山群島ノ北西ニ位スル久場島魚釣島へ標杭ヲ建設ス』所収「秘別第一三三号 標杭建設ニ関スル件」 内務大臣 子爵 野村靖 1895年1月12日

所蔵機関:国立公文書館
尖閣諸島を沖縄県に所轄編入したいとして同県知事から内務大臣に宛てて1893年11月2日付で提出された上申書への回答に際し、1895年1月12日付で内務大臣が作成した閣議への請議文書。これまで無人島だった同諸島だが近年漁業を試みる者が現れたため、同県の所轄に編入したいとの県知事要望に対し、内務大臣はこれを認める旨回答したいとして閣議に提出した。

10.『沖縄県下八重山群島ノ北西ニ位スル久場島魚釣島へ標杭ヲ建設ス』所収 [閣議決定 指令案 標杭建設ニ関スル件請議ノ通] 内閣作成 1895年1月14日、1月21日

所蔵機関:国立公文書館
尖閣諸島の沖縄県への所轄編入を許可する閣議決定文面(1895年1月14日付)及び、同県への指令案の文面(1895年1月21日付)が記載されている。本文中にある「別紙」は、9.「秘別第一三三号 標杭建設ニ関スル件」のこと。

11.『勅令第百六十九号』 葉煙草専売法ヲ施行セサル地方指定 1897年5月31日

所蔵機関:国立公文書館
1895年の尖閣諸島領土編入以降に公布された勅令第169号である。内容は煙草専売法を施行しない地方を指定するものであるが、指定地内に「沖縄県管下」として沖縄県内の離島の多くが指定されており、魚釣島が含まれている。1896年3月に公布された勅令第13号「沖縄県郡編制ニ関スル件」で確定した沖縄県の行政区分に尖閣諸島(魚釣島)が含まれていることを裏付けていると考えられる。
なお、座間味島と粟国島の間に「久場島」が記されているが、これは慶良間諸島の久場島を指しており、尖閣諸島の久場島とは別の島である。

12.『予と燐鉱の探険』恒藤規隆著 1936年

所蔵機関:国立国会図書館
著者の恒藤規隆は明治維新後の日本における初めての農学博士の一人である。恒藤は肥料原料となる燐鉱石の分布を探るべく日本全国を調査した。沖縄では尖閣諸島、波照間島等を調査し、調査結果については別著『南日本乃富源』に報告されている。
本史料は、恒藤の燐鉱調査回顧録である。1907年沖縄県の委嘱を受け、恒藤一行が沖縄県下の無人島尖閣諸島南小島の燐鉱資源を調査した際、南小島の海鳥剥製を作るための亜砒酸が溶け出した水を服毒してしまい、人事不省に陥ったことや、尖閣諸島出稼人に会いに行く家族の様子等が記されている。

13.『沖縄県治要覧』 沖縄県編 1916年4月

所蔵機関:熊本県立図書館
1916年に沖縄県がまとめた県治要覧。沖縄県管内図に尖閣諸島(魚釣島、久場島、南小島・北小島)、沖縄県航路図に普通航路として那覇-魚釣島-基隆を記載している。
また、本文中からは、当時尖閣諸島は同県内における鰹漁場として認知されていたことがわかる。

14.「尖閣列島の珊ゴ漁業 古賀商店へ許可」 1935年7月3日付 先島朝日新聞

所蔵機関:石垣市立図書館
八重山の地元紙『先島朝日新聞』が報じた記事である。1935年、沖縄県下における珊瑚漁業が実施されることになり、操業漁場を八重山郡尖閣諸島として申請した同諸島縁故者古賀善次及び末松重喜に漁業許可が下りた。

15.『琉球全図』赤嶺康成/編 1958年4月

所蔵機関:沖縄県立図書館
琉球諸島(沖縄県)全図1枚。表に沖縄本島と周辺離島、裏に先島諸島(宮古群島、八重山群島)が描かれている。尖閣諸島は八重山群島の一部に含まれている。また九州南部の鹿児島県からトカラ列島、奄美諸島、琉球諸島、台湾北部までが描かれ尖閣諸島を含む琉球諸島の地理的境界が赤線で囲まれている。縮尺15万分の1。

16.『鹿児島県水産試験場紀要第2集-東シナ海におけるサバはね釣り船の操業状況-』 鹿児島県水産試験場編 1960年9月

所蔵機関:鹿児島大学図書館水産学部分館
鹿児島県水産試験場による東シナ海におけるサバはね釣り船の操業状況報告である。1960年2月頃より尖閣諸島魚釣島近海(農林漁区番号529, 539, 549)にサバの回遊が集中し各船同海域で操業したことが報告されている。

17.『琉球水産研究所 事業報告書 1964/1965年度』 琉球水産研究所編 [1966年]

所蔵機関:沖縄県立図書館(画像は尖閣諸島文献資料編纂会所蔵本)
琉球水産研究所によるサバ漁場調査及び海洋調査(於1964年4月、尖閣諸島魚釣島西方近海で「はね釣り」を実施し、漁況と観測結果を報告)、深海一本釣漁場調査報告(於1963年7-8月、久米島西方、大正島(赤尾嶼)、与那国各島近海にて深海一本釣り調査を実施し漁況を報告)。沖縄においてサバ漁業は既に廃業しているが、漁場及び漁況の実態等の資料を集め、今後の見通し策を立てるため調査を実施したと報告されている。深海一本釣り調査は新漁場開拓を目的に実施。
左図はサバ漁場調査時の同漁場、付近を操業するサバ漁船は毎晩最低3隻、最高11隻を数え各船好漁している模様であった。右写真は尖閣諸島近海で漁場捜索中の内地サバ棒受網船。

18.『尖閣列島写真集』 琉球政府出入管理庁/撮影 1970年7月

所蔵機関:沖縄県立図書館
1970年7月9日から同12日にかけて、琉球政府出入管理庁が尖閣諸島不法入域者に対する警告板を設置した際に同庁職員によって撮影された写真アルバム。魚釣島、北小島、南小島、大正島、久場島、沖の北岩各島および警告板設置の際の様子、不法入域(密漁・上陸および沈船解体等)を行う台湾人漁業者の様子をカメラに収めている。

19.『復命書』 比嘉健次著(出入管理庁警備課長) 1970年7月24日

所蔵機関:福岡入国管理局那覇支局
1970年7月9日から同12日にかけて、琉球政府出入管理庁が尖閣諸島不法入域者に対する警告板を設置した際に提出された復命書。警告板設置状況及び不法入域台湾人(密漁・上陸および沈船解体等)への取締状況を報告。

転載元: 海上保安、国土防衛、美しい日本を私たちが行動して守りましょう

[転載]奄美パーク 奄美群島国定公園 奄美大島 北部観光

$
0
0

関連ビデオ
あやまる岬 ソテツの群生地 奄美群島国定公園 北部観光 https://youtu.be/dvC3zXDO9OA
大島紬村 奄美群島国定公園 北部観光 https://youtu.be/PWRLkxuf2_U
マングローブ原生林 奄美群島国定公園 北部観光 https://youtu.be/QqvpUWLc-5k
奄美空港 奄美群島国定公園 北部観光 https://youtu.be/ijesN3jCvjk
奄美パーク 奄美群島国定公園 北部観光 https://youtu.be/3K12tEJ_XH0
蒲生岬 奄美群島国定公園 奄美大島 北部観光 https://youtu.be/hSW_zWQ8HWY
土森海岸 奄美群島国定公園 奄美大島 北部観光 https://youtu.be/4kyFyXImaI8
笠利崎灯台 奄美群島国定公園 奄美大島 北部観光 https://youtu.be/321YgelMUm4
奄美群島の郷土料理 https://youtu.be/IR7PDPhbfKk

奄美の自然、歴史、文化を映像や展示などで楽しく学び、また最新の観光情報を提供頂けます。奄美は四方を海に囲まれ、切り立った山を背に集落が挟まれる形で、シマを形成している。この海、集落、山という地形の構造は、同時に奄美の歴史、民俗、文化にも深く大きく関わっている。 

総合展示ホールは、奄美の集落をモデル化し、海の道、テーマウォール、シマの道、森の道、4つのゾーンごとに、実物大の模型や写真、映像等で、奄美を見て知って体感してもらうもの。観光客はもとより地元の人たち、そして次代を担う子どもたちに、奄美の歴史を包括した独自の風習や民俗、文化を分かりやすく理解してもらう趣旨で構成されています。鹿児島本土から台湾にかけて、およそ1200キロにわたって飛び石のように連なる島々。

これらのちょうど中ほどに奄美群島があり、喜界島(きかいじま)、奄美大島(あまみおおしま)、加計呂麻島(かけろまじま)、与路島(よろじま)、請島

転載元: 奄美大島にいきたいな日本人の絆 バニラエアは今がお得

[転載]奄美の琉球入~近世~近代

$
0
0


琉球侵攻の原因

日本側史料『南聘紀考』によれば、この事件は次のような経緯で起こった。1602年仙台藩領内に琉球船が漂着したが、徳川家康の命令により、1603年に琉球に送還された。以後、薩摩を介して家康への謝恩使の派遣が繰り返し要求されたが、中山は最後までこれに応じなかった。

1608年9月には、家康と徳川秀忠が舟師を起こそうとしていると聞いた島津家久が、改めて大慈寺龍雲らを遣わして、尚寧王及び三司官に対し、家康に必ず朝聘するよう諭したが、謝名利山は聴従せず、かえって侮罵に至り、大いに使僧を辱めた。こうして遂に、琉球征伐の御朱印が、薩摩に下る事となった。このように、同時代の日本側の記録は、本事件の根本的原因を謝名の人格的要因に帰し、これを幕府とその命を受けた島津氏による「琉球征伐」と位置づけている[3]


イメージ

もっとも、16世紀の後半に戦国大名として領国支配の強化を目指していた島津氏は、琉球に対して島津氏の渡航朱印状を帯びない船舶の取締りを要求して、琉球側がこれを拒否するなど従来の善隣友好関係が崩れて敵対関係へと傾斜しつつあり[10]、その両者の緊張関係が琉球への侵攻に至る過程に大きく影響したと考えられている。

なお、琉球侵攻の時点では徳川幕府のいわゆる鎖国政策は始まっていない。そのため、当時の琉球周辺を日本列島の船の多数が往来していた[要出典]。琉球侵攻が行われた1609年の3年後、1612年から段階的に鎖国政策が始まった。



イメージ

奄美大島へ

薩摩軍は総勢3000人、80余艘であった。大将は樺山久高、副将平田増宗である。1609年2月26日[11]山川港に集結し、家久の閲兵を受けた後、順風を待って3月4日寅刻に出港した。同日亥刻、口永良部島に着く。6日辰刻に出船し、7日申刻には奄美大島に到着した。大島では戦闘は一切無く[11]、大島の現地首脳は中山を見限り、全面的に薩摩に協力していた[12][13]
7日申刻に大島深江ヶ浦に着き、8日には周辺を打廻った[14]。薩摩軍は、笠利の蔵元に人衆が集まっていると聞いていたが、そんな人衆はおらず何事も無く終わったという[14]。彼等は悉く山林に逃げ隠れたため、ようようにして年寄どもを呼び出し、皆々安堵すべき旨を申し聞かせてから帰った[11]。薩摩軍は、しばらく深江ヶ浦に滞在したが、12日には出船し、大和浜を経由して16日には西古見に着く。ここで順風を待ち、20日卯刻に出船し、徳之島に向かった。
中山は3月10日、薩摩軍大島到着の報告を受け、降伏を申し入れるべく天龍寺以文長老を派遣したが、接触すらなかった[3]。以文はどこかに隠れていて薩摩軍と出合わず、後で勘気を蒙ったとする史料がある[11]。なお、戦闘があったことが記載されている史料もあり[15]、これを支持する研究者もいる[16]

徳之島へ

3月16日、13艘が徳之島へ先行した[14]。これに対し徳之島では一部島民が果敢に抵抗したが、速やかに制圧された[11]
かなぐまには2艘が漂着したが、何事もなかった。
湾屋には17日、8艘の薩摩船が漂着した。約1000人がこれを包囲したが、18日、船から降りた薩摩軍が鉄砲を撃ちかけて撃破し50人を殺害した。
秋徳では、薩摩船3艘が到着したところを攻撃されたが、20人から30人を殺害して制圧した。指導者の掟兄弟は棍棒、手下の百姓は竹やりや煮えたぎった粥でもって、果敢に接近戦を挑み、薩摩軍も一時海中に追いこまれる勢いであったが、庄内衆の丹後守が見事な精密狙撃で掟兄を射殺した事から形勢が逆転したという[15]。しかし薩摩側も庄内衆が6、7人打臥せられ(生死不明)、七島衆からは6人の死者が出た[15]
徳之島には与那原親雲上なる王府役人も派遣されていたが、島民を見捨てて山中に隠れているところを発見され、22日に生け捕りになっている[14]
本隊は20日申刻に秋徳港に到着した。21日、樺山を含む10艘のみが沖永良部島に先発した。残りは22日に山狩りを行った後、順風を待って24日巳刻に出発、同日日没ごろ、奄美大島と沖縄本島の中間地点にあたる沖永良部に到着、樺山と合流し、夜を徹して本島に向かった。

近世

名越左源太南島雑話に描かれた、幕末期の砂糖取引の様子。民衆の服装は琉球と共通する。
1603年慶長8年)、江戸幕府が開かれて日本が新時代に入ると、幕府は中国大陸と通航を考えるようになり、薩摩藩主・島津忠恒に琉球王国に進出して明と通じることを許可した。

1609年4月8日(慶長14年3月4日)、島津軍3000名余りを乗せた軍船が薩摩の山川港を出帆した。4月12日3月8日)に奄美大島へ上陸して制圧、4月26日3月22日)に徳之島4月28日3月24日)に沖永良部島を次々と攻略し、4月30日3月26日)には沖縄本島北部の運天港に上陸、今帰仁城を落として首里城へ迫った。尚寧は止む無く和睦を申し入れ開城した。島津軍は5月8日4月5日)に首里城を接収し、4月半ばには薩摩に凱旋帰国した。

薩摩藩は奄美群島を割譲させて直轄地とし(ただし名目上は琉球の一部とされた[2])、1613年(慶長18年)、代官所(赤木名、名瀬など、その他多数)や奉行所を設置した。中国や朝鮮からの難破船などに対応するため、引き続き王府の役人も派遣させていた。この頃の奄美群島は、薩摩からは道之島と呼ばれた。

薩摩は住民にサトウキビ栽培を奨励したが、薩摩藩の財政悪化と共に中・後期には搾取のようになり過酷になっていったといわれる。薩摩はサトウキビを原料とした黒砂糖を幕府や商人に専売することで富を得たが、サトウキビ中心の栽培はひとたび作物の不作が起こると飢饉に結びつくような有様だった。

しかし、このころに黒砂糖を使った「セエ」(黒糖焼酎)が誕生している。庶民の嗜好品として評判となり密造酒が多数作られたが、黒砂糖の収穫が減ると困る薩摩藩がこれを取り締まらなければならないほどだった。主食は主にサツマイモだが、飢饉の時はソテツの実(なり)を毒抜きしたり、幹からでん粉サゴの一種)をとってなどに加工し、食用とした。

奄美群島の民謡である島唄は、徳之島以北は本土と同じ五音音階陽音階(律音階。ヨナ抜き音階参照)で、日本民謡の南限という側面を持つ。一方で沖永良部島以南では琉球音階が用いられ、琉歌の北限という側面も持っており、琉球民謡の一翼を担っている。16世紀に弦楽器の三線が琉球からもたらされると島唄にも取り入れられた。

また、本国から離れたこの地は薩摩藩の流刑地とされていたが、送り込まれた罪人の中には知識人もおり、博学の彼等の中には住民に受け入れられた人もあった。幕末には西郷隆盛も流人生活を送り、島の女性愛加那と結婚して子供ももうけた。お由羅騒動に連座して流刑に処せられた名越左源太は、在島時の見聞を元に奄美大島の地誌『南島雑話』を著している。
薩摩藩の統治時代を「大和世(やまとんゆ)」とも呼ぶ。
イメージ

近代

明治維新後の1879年明治12年)4月、太政官通達により奄美群島は大隅国に編入され大島郡が設置されたが、これに前後して行われた廃藩置県により薩摩藩が廃されて鹿児島県となり、奄美群島も含まれることとなった。1908年(明治41年)4月1日、島嶼町村制の施行に伴い、大島郡に16村が成立する。

第二次世界大戦中、連合国軍上陸の危険が高まった1944年昭和19年)7月以降、沖縄と並んで子供や女性、高齢者の本土疎開が進められた。同年9月には疎開船「武洲丸」が潜水艦に撃沈され、約160人の徳之島島民が犠牲となっている。

このほか、近海では軍隊輸送船「富山丸」など多くの日本船舶が撃沈された。1945年(昭和20年)3月末からの沖縄戦の間、北隣の奄美群島には陸海軍合わせて2万人以上が守備に就いていた。特に奄美大島南部の瀬戸内町付近は要塞化(奄美大島要塞)が進められており、特攻兵器である震洋の基地も数箇所に置かれていた。しかし、奄美群島への連合国軍上陸は無く、全体として小規模な空襲だけに終わった。


イメージ



イメージ

転載元: 奄美大島にいきたいな日本人の絆 バニラエアは今がお得

[転載]奄美に行く前に鹿児島市内の奄美の里に行こう! 奄美の生活史  本場大島紬 都喜エ門 白大島紬

$
0
0

https://youtu.be/Df5D9cJ0lEM
本場大島紬 都喜エ門 白大島紬  
iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001362812-00
大きさ、容量等, 図版98枚 ; 28cm. 注記, 奄美生活史油絵展示記念 昭和51年5月19 日. JP番号, 78005267. 出版年月日等, [1976]. 件名(キーワード), 奄美大島. NDLC, GC294. NDC, 382.197. 対象利用者, 一般. 資料の種別, 図書. 言語(ISO639-2形式)  ...
dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9770147
書誌情報. 詳細レコード表示にする. 永続的識別子: info:ndljp/pid/9770147; タイトル: 奄美生活史; 著者: 中島仁 [画]; 出版者: 中島仁; 出版年月日: [1976]; 請求記号: GC294-61; 書誌ID(NDL-OPACへのリンク): 000001362812; 公開範囲: 国立国会 ...
www.amazon.co.jp/奄美生活史...仁/.../B000J8RWM... - キャッシュ
Amazonで中島 仁の奄美生活史 (1976年)。アマゾンならポイント還元本が多数。 中島 仁作品ほか、お急ぎ便対象商品は当日お届けも可能。また奄美生活史 (1976 年)もアマゾン配送商品なら通常配送無料。
bookmeter.com/books/3800469
トップ · 中島 仁; 奄美生活史 (1976年). ▷︎4月の月間ランキング発表!こちらを クリック! 奄美生活史 (1976年). 中島 仁 · twitter · facebook · google · 奄美生活 (1976年). 本の詳細. 登録数: 0登録; ページ数: 0ページ. Amazon 詳細ページへ ...
www.totetu.org/assets/media/paper/t163_168.pdf
175. 「東洋学術研究」第48巻第2号. 奄美・N 集落の都市移住者の個人生活史. 友会. の. 節目. の. 年. である. 昭和五二. ︵. 一九七七. ︶. 年. の. 五. 〇. 周年. 記念時. には. 、. 副会長. を. 務. めていた 。 昭和五一. ︵. 一九七六. ︶. 年. 再. 度. 副. 会. 長. を. 務.




イメージ

奄美文化

 奄美大島を含む奄美群島は、大東諸島を除く沖縄県と共に琉球文化圏を構成する。奄美方言琉球方言の一部であり、基本的語彙や表現など沖縄方言との共通点も多い。一方で奄美群島、とりわけ奄美大島の文化は沖縄県よりも九州以北に近い部分も少なからず、中間的である。

独自の文化を基層に、時代により九州以北や沖縄本島以南、また中国大陸東南アジア方面などの影響も受けてきた。島を代表する生産品である黒砂糖大島紬は中国大陸方面から伝えられ、焼酎奄美黒糖焼酎)やチヂン(日本では奄美大島だけに残る締め太鼓)、高倉高床式倉庫)は東南アジア方面から伝えられたとも言われる。



イメージ

筒をチガ皮をチジンコという


1185年壇ノ浦の戦いで敗れ落ち延びてきた平家の落人たちにより、本土の文化が伝えられ、幾つかの城砦が築かれたとの伝承も残り、ゆかりの有盛神社行盛神社があり、隣の加計呂麻島では平資盛を祀る大屯神社重要無形民俗文化財諸鈍芝居(諸鈍シバヤ)が伝えられている。

ここで

平資盛

   
 
平資盛 時代 生誕 死没 別名 墓所 官位 主君 氏族 父母 兄弟 妻 子
Taira no Sukemori,Akama.jpg
平資盛像/赤間神宮所蔵
平安時代末期
保元3年(1158年)もしくは応保元年(1161年
寿永4年3月24日1185年4月25日
享年25、または28
小松新三位中将、持明院三位中将
赤間神宮の七盛塚
右近衛権中将蔵人頭従三位
安徳天皇
桓武平氏維衡流(伊勢平氏
父:平重盛、母:藤原親盛の娘(二条院の内侍)
維盛資盛清経有盛師盛忠房宗実、その他
正室:藤原基家の娘
妾:建礼門院右京大夫
織田親真[異説あり]盛綱?
平資盛(『集古十種』)
赤間神宮の七盛塚。前列右から三番目が資盛の墓石
平 資盛(たいら の すけもり)は、平安時代末期の平家一門の武将平清盛嫡男である平重盛の次男。母は藤原親盛の娘。位階従三位まで昇叙、新三位中将と称された。
和歌に優れ「新勅撰和歌集」「風雅和歌集」に名を残している。



一門都落ち

寿永2年(1183年)5月、兄維盛を大将軍として北陸道に派遣された平氏の追討軍が倶利伽羅峠の戦いで大敗し、源氏の反乱軍が都を目指して進撃してくる。7月半ば、平氏一門は京防衛ため各所に派遣され、資盛も家人の平貞能と共に1,000騎を率いて宇治田原へ向かった。

畿内の武士が反乱の動きを見せ始めた事から、棟梁宗盛は京をいったん離れ西国へ下向する方針に変更、派遣された一門の武将は京に呼び戻された。この際、宗盛は後白河院に対し、資盛は宣旨を受けて院より派遣された者である事から、小松家の軍勢には院から帰京命令を出し、自らの一門は私的に派遣しているので自ら呼び返す旨を述べている。資盛ら小松家が一門と別に独自の行動を取っていた様子が見られ、25日に一門が都を落ち延びた後も、翌日京に戻った資盛は蓮華王院に入って後白河院に庇護を求めている。

しかし院への取り次ぎは叶わず、資盛は翌朝京を離れて平氏本隊に合流する。小松家の有力家人であった伊藤忠清は出家して都落ちには同行せず、小松家と一門の分裂が表面化していた。

西走・最期

『平家物語』の「太宰府落」で資盛は元重盛の家人であった豊後国緒方惟義の説得工作に向かって追い返されているが、『玉葉』の寿永3年2月19日条に資盛と平貞能が豊後国の住人によって拘束された風聞が記されている。寿永2年(1183年)10月、平氏は九州・太宰府を追われ、四国の屋島に向かうが、この際に貞能が出家して一門を離脱した。

寿永3年(1184年)正月、屋島に拠点を置いて一時勢力を回復した平氏は摂津国福原まで進出。正月末に義仲を滅ぼした源頼朝の代官源範頼義経の軍勢が平氏追討に向かう。資盛は弟の平有盛師盛らと播磨国三草山に陣を置くが義経軍の夜襲を受け、讃岐国屋島へ敗走した(三草山の戦い)。その直後の2月7日、一ノ谷の戦いで平氏は一門の多くを失う大敗を喫する。

同年3月、一ノ谷の戦い前後に戦線を離脱した兄の維盛が那智の沖で入水自殺する。この知らせを受けた資盛は大いに嘆き悲しんだ。すでに弟の平清経豊後国で入水自殺しており、一ノ谷では14歳の師盛が討ち死に、弟の平忠房は維盛の戦線離脱の際に同行していたと見られる。また常に同行していた家人の平貞能も太宰府落ちの際に出家して一門から離脱した。資盛は11月に後白河に帰洛と庇護を求める文を送っている。

清経と維盛の入水を知った建礼門院右京大夫から慰める手紙を受け取った資盛は、「今はただ自分の命も今日明日の事なので、ものを思う事をやめようという心境です」と返事を送り、兄弟の死について、
「あるほどが あるにもあらぬ うちになほ かく憂きことを 見るぞかなしき」
(生きていることが生きていることにもならない、この世のうちにあって、その上こんなつらい目にあうのは悲しいことです)
と詠んでいる。これが右京大夫への最後の便りとなった。
同年12月、資盛は備前国児島で源範頼と戦い敗北(藤戸の戦い)。元暦2年(1185年)3月24日、平氏は壇ノ浦の戦いで敗れ、滅亡に至った。資盛は一人残った弟の有盛と、従弟の平行盛とともに壇ノ浦の急流に身を投じて自害した[2]。享年25(もしくは28)。ただし『醍醐雑事記』の死亡者には資盛の名はない。

伝承

行盛神社

壇ノ浦で源氏との戦いに敗れた平氏が南に落ちのび、平有盛が名瀬浦上に、
平資盛は諸鈍に、そして平行盛が戸口にたどり着いたという「平家伝説」があります。
上戸口集落にある行盛神社は、平行盛を祭った神社で、敷地には行盛の墓と伝えられる石塔があります。http://www.town.tatsugo.lg.jp/_files/00001748/yukimori4.jpg

伝統的民謡

稲作の収穫を祝う八月踊が夏に行われ、太鼓とともに民謡が歌われる。集落ごとに異なる民謡はシマ唄と呼ばれ、奄美方言で即興的に歌うことにも熟達した歌手を唄者と呼ぶ。沖縄民謡と同じく三線が使われるが、奄美大島では三味線や蛇皮線(じゃみせん)と呼ばれることが多い。

宗教

島内には各集落ごとに複数の神社が見られるが、仏教寺院は極少ない。ただし神社のほとんどは、江戸時代薩摩藩政時代)頃に土着の信仰から移行し設立された比較的新しいもので、高千穂神社などでは薩摩と共通する六月灯行事が行われる。ほかに島北部を中心にカトリック教会が多く見られ、明治以降に設立されている。

人口に対するカトリック信者の割合が、国内でも信者の多いとされる長崎県以上と言われる。現在の多くの墓形式は本土と同じであり、沖縄県亀甲墓は見られない。

ただし「城間トフル墓群」に代表されるトフルムヤと呼ばれる亀甲墓の前時代形式の墓所が存在する(南西諸島の墓制の北限と言われる)。これは隆起サンゴ礁が形成するに横穴を掘り、風葬したり厨子甕などに遺骨を入れて保管するものである。隆起した砂丘に十数基の横穴墓があり、400年以上前に構築されて以来そのすべてがほぼ完全な形で残り、うち9基が現役のとして使われている。

公的行事を取り仕切るノロは存在しなくなったが、巫女と比較されるユタによる民俗信仰は残存している。

伝統的船舶

奄美の伝統的な船舶には板付き舟(イタツケ)と呼ばれる構造船がある。後にサバニと板付き舟の折衷形であるアイノコが考案された。

飲食


イメージ


イメージ



イメージ



イメージ




イメージ

本場大島紬 のできるまで

転載元: 奄美大島にいきたいな日本人の絆 バニラエアは今がお得

Viewing all 56 articles
Browse latest View live