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Channel: 沖縄県風土記や奄美を学んで旅に出よう
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[転載]本場大島紬の里 奄美生活資料館に行こう 鹿児島市内です

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藤都喜エ門が生涯を捧げた大島紬と奄美の自然・文化に触れられる名所です。
 海のシルクロードをイメージした「日本風庭園」とブーゲンブリア・ソテツなど南国情緒あふれる「奄美風庭園」が観る者を南の島へ誘います。
 大島紬の製造工場や「都喜エ門」ブランドを展示する美術館を見ることができます。
 また、草木染体験や「大島紬製品」「奄美特産品」の販売を行っているほか、レストラン「花ん華」では奄美大島の郷土料理である「鶏飯」を食べることができます。



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都喜ヱ門は「紬一つをわが命とぞする」を人生哲学として、七十有余年を大島紬と共に歩みました。本場大島紬の伝統技法をベースにしながらも新しい図柄・技法を求め、より忠実に表現するための絣や染色技法を開発し時代を先取りする作品創りに打ち込んでいました。1973年には『都喜ヱ門』ブランドを展開し、多くの方々に愛されてきました。
1994年には「百寿」が海を渡り、英国立ヴィクトリア博物館に収蔵され美術作品として世界的に評価されることとなり、海外はもとより国内でも高い評価を受け、数々の有識者がご来園くださりました。


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糸を糸巻きにかけていく工程です。


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トリキリアゲ




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ハジキ

かつての琉球列島で女性の手に施されていた刺青 ハジチ 針突 について

現代では人形、絵画、マンガ、ゲームなどでは再現されることがない、かつての民族習慣である針衝 針突(はじち ハジチ  ハヅキ はりとつ)についてまとめました。


滅亡した琉球
blog更新。「琉球国の滅亡とハワイ移民 (歴史文化ライブラリー)」鳥越 皓之 著 kousyou.cc/archives/11106
同じく滅びた習慣である琉球諸島のハジチ
ハジチ彫りを生業とする針突師(ハジチャー)が居て、各地を廻り、「首里那覇では今、菱形模様が流行っている」などと、情報を提供してハジチ商売をしていたようだ。

場所によっては、心得のある者が、その地域のハジチを一手に引き受けていた…地方の女子たちは、1〜2年に一度やって来る針突師を心待ちにしていたんだって。

…親たちも、この針突費用稼ぎだけは、大目にみていたようだ。むしろ、奨励していたような節がある。

初めて針突をする手を「サラ手。サラてぃー」と言い「まっさらな手」を意味する。奇数年齢の年の吉日を選び、そのサラ手に「ハジチ」が施されると、家族はもちろん、友人知人が集まり、祝いの座が設けられた。美風だったのである。
 
針突の所要時間は存外に短く、3、4時間。術後はトーヌカシー(おから)で突き跡を洗い、痛さと腫れを引かせたようだ。
トーヌカシーには民間療法の特効があったのだろうか。神経が細やかな指や手の甲を針で突くのだから、痛くないわけがない。
ハジチセーク(針突き職人、ハジチャーとも)とよばれる専門の女性があたったという。
泡盛で墨をすり、それを手の甲に模様を描いてから針に墨をつけ、上から縫い針を束ねて突くやり方と、針で突きながら模様をつくっていくやり方があったという。針で突く痛みをこらえるために、大豆を煎って黒砂糖でまぶしたものを食べたようだ。
始めて7歳前後の少女の中指と無名指とに豆大の點を黥し,人妻となり出産前後又は24~5歳に至りて手背に黥するのを通例

十文宇形の紋様臓物の上達せんが爲めの黥…

カシキと稱し絲巻を示した紋様であつて,意味は前掲のものと同じく織物の巧みならんが爲めの黥…

鋏を示した紋様であつて,機又は縫物の上手ならんが爲めの黥

繊維工業学会誌
Vol. 6 (1940) No. 4 P 149-167
JST.Journalarchive/fiber1935/6.149

この写真によって、人々がこの個人的な装飾の方法に頼った度合いに関していくらか見当がつきます。日本政府はこの風習を禁止しましたが、かつてこの習慣が広く行われていた時代には、違った島あるいは違った社会階層から来た女性は、手や腕に彫り込まれた模様によってただちに区別することができたのです。

転載元: 奄美大島にいきたいな日本人の絆 バニラエアは今がお得


[転載]奄美大島 古仁屋2

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2006.10.22(日)曇り、6時15分でも暗い。食事を終わって6時45分。雲もあるが青空も広がっている。

本日は対岸に見えている島、加計呂麻島に行ってみた。
フェリーで生間(いけんま)まで20分、往復500円。
7時40分に乗船。島内を3時間半ほど歩いて散策。
確かに奇麗である。だが歴史を語るものは乏しい。
諸鈍というディゴの巨木並木と800年以上前から伝わる諸鈍シバヤという仮面を付けての踊りが残る奇麗な浜がある。
そこには諸鈍シバヤが行われる大屯神社がある。
それ以外は1000年ぐらい前から続くといった文物と生活に接しる機会はなかった。12時15分に島を発つ。

何故かヨットが6パイもいる。2艇は33と42位という大きな船で外人が乗っている。
外来艇のようであるがかなり長期に生活しているように見えた。
あとカタマランが一艇、残りは25フィート位が3艇。これらはここが係留場所のようだ。どうなっているのかね。

写真:
・諸鈍のディゴ並木
・諸鈍の浜
・生間のとなりの湾
・大屯神社参道
・鳥居額
・拝殿
・境内
・手水
・高千穂神社参道
・拝殿
・本殿
・遥拝所

転載元: DONのヨット暮らし

[転載]貧困と沖縄戦

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http://ryukyushimpo.jp/column/entry-254078.html

 お笑いコンビ麒麟(きりん)の田村裕さんは中学生でホームレスとなった。著書「ホームレス中学生」によると、母親が病死、その後父親もがんを患ったことが原因で職を失い、借金取りが家に来るようになった。父親の「解散!」の一言で家族は離散した

▼病気が原因で家族離散とは、誰にでも起こり得る話だ。田村さんと同様に親の事業の浮き沈みで厳しい子ども時代を送った人、そのような状況に置かれている人も多いだろう
▼一方、沖縄では貧困が何世代にも続く世代間連鎖が課題となっている。田村さんは「親の病気」がきっかけだったが、それを「沖縄戦」に置き換えると沖縄の貧困の背景が見えてこないだろうか
▼両親を失った「戦争孤児」、家計を助けるため働きづめで学校に行けなかった人、十分な教育が受けられず就職先が限られてしまった人を思い起こしたい。福祉の恩恵は復帰まで微々たるもので本土との格差は広がった
▼田村さんを含め逆境から今の安定した生活を手に入れた人はよく報道される。しかし厳しい生活のまま亡くなっていった人やその子や孫が今どのような状況に置かれているのか、思いをはせずにはいられない
▼田村さんは同級生の親たちに救われ、約1カ月のホームレス生活に終止符を打った。「こども食堂」の広がりに見られるように、気付き、行動することは未来への希望につながっている。


転載元: ニュース、からみ隊

[転載]沖縄の「貧困」が深刻な状態にある

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http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-216746-storytopic-11.html

貧困率最悪 雇用を改善し悪循環断て


沖縄の「貧困」が深刻な状態にあることが、山形大学の戸室健作准教授の調査で浮かび上がった。
所得が国民平均値の半分に満たない人の割合を示す貧困率が、2007年で沖縄は全国ワーストの29・3%で、全国平均14・4%の倍以上だ。働く貧困層「ワーキングプア」の割合も全国ワーストの20・5%で、全国平均6・7%の3倍に上る。
バブル経済崩壊後の労働市場の規制緩和で非正規雇用が拡大するなど、貧困率の悪化は全国的な課題だ。しかし沖縄は労働環境の変化以前に、高失業率や低所得などが沖縄社会の特質として構造化しているところに深刻さがある。
しかも貧困下で生活保護の必要がありながら、制度を活用している世帯の割合(捕捉率)は9・8%(全国14・3%)にとどまる。高貧困率で低捕捉率という社会構造はいびつと言うしかない。
貧困状態の放置は子どもの教育や健康などにも影響する。貧困の連鎖・悪循環を断ち切るために、行政や企業、関係団体などの重層的、横断的な取り組みが必要だ。
柱となるのはやはり、雇用環境の改善だろう。厚労省の2012年調査では県内の非正規雇用の割合は44・5%と全国一高く、全国平均の38・2%を6ポイント上回る。
労働分配率の低さも長年指摘されている。県の04年の調査では県内の労働分配率は65・1%で、全国平均の70・7%に比べ5・6ポイント低い。企業収益が労働者の賃金に適切に反映されない傾向も常態化しているのではないか。
中小企業が多いなどの事情はあろうが、正社員化が進み雇用の場が確保されても、低賃金状態が改善されないのでは貧困の連鎖を断ち切ることはできない。
常態化した貧困から脱する上で企業側が果たす役割は大きいし、そういった機運を行政の支援策も含め社会全体で広げたい。
生活保護捕捉率の向上も重要課題だ。生活保護法改正で手続きが厳しくなり、申請を控える事例が増える可能性がある。支援が必要な人の9割が制度から排除されていては、社会全体の貧困度が増すだけだ。
貧困率については、生活実感をそのまま反映するものではないとの指摘もある。しかし、社会保障の引き締めが強まり消費税も上がる中で、貧困の連鎖・悪循環はより深刻になる恐れもある。県民全体で考え、取り組むべき課題だ。


転載元: ニュース、からみ隊

[転載]沖縄の1/3が貧困世帯に

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 南国の楽園と思われていた沖縄県で貧困が急拡大しているというのです。 原因究明は

これからで、まして対策はその先という状態で、さらなる貧困の拡大が懸念されます。

   誰が見ても原因は明白で観光立県に押し寄せる不況による観光客の激減と農業漁業以外に

さしたる産業の衰退で、その上お金にならなくなった米軍関連商売の低迷となれば事態は

深刻です。 そこへ追い打ちの少子高齢化に加えて米軍ナイズされてしまった県民の食生活

は深刻な肥満や糖尿病の蔓延などをもたらし最悪の事態を迎えてしまったと言う事になります。

  下は無能な歴代政権の無策によって国防上の最大の要衝である沖縄県が有史以来最大の

危機を迎えているにもかかわらず、無理やり巨大基地の移転押し付けを強要し、ますます沖縄

県民の国家不信を極みにまで肥大させてしまった政府の不手際の深刻さを一言も報じない

お粗末な数多のネットニュースです。

子の貧困率、沖縄37%最悪 12年全国の2・7倍

琉球新報 1月5日(火)5時5分配信
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沖縄 3世帯に1世帯が貧困状態 子の貧困も全国最悪

沖縄タイムス 1月5日(火)10時16分配信
 沖縄県内で必要最低限の生活を保つための収入がない人の割合を示す「絶対的貧困率」は、2012年に34・8%、また18歳未満の子どもがいる世帯の「子どもの貧困率」は同年で37・5%といずれも都道府県別で最悪、さらに伸びも全国平均を大きく上回ることが、山形大の戸室健作准教授の研究で4日、分かった。県内で3世帯に1世帯は貧困状態にあり、その層が急速に拡大していることが明らかになった。
 県内の貧困率34・8%は2位鹿児島県の24・3%と10・5ポイント、全国平均18・3%と16・5ポイント差で、伸びは07年から5・5ポイント(全国平均3・9ポイント)と急激に上がった。
 「子どもの貧困率」37・5%も、2位大阪府の21・8%と15・7ポイント、全国平均の13・8%より23・7ポイント高く、伸びも07年から6・8ポイント(全国平均3・8ポイント)増えた。戸室さんは「この20年間、沖縄は常に貧困率が最も高い地域。背景に、産業のぜい弱さや低賃金があるのではないか」と指摘した。
 また就業世帯のうち最低生活費以下の収入しか得ていない世帯(貧困就業世帯)の割合を示す「ワーキングプア率」も県内は25・9%と最悪で、2位の大阪府14・2%と11・7ポイント差と大きな開きがあった。
 研究は、12年の総務省「就業構造基本調査」を用い、世帯収入が生活保護費以下のデータを調べた。戸室さんによると、都道府県別の子どもの貧困率が明らかになるのは初めて。論文は、2月刊行の「山形大学人文学部研究年報」に掲載予定。(中部報道部・安里真己)

子どもの貧困率は37.5%

琉球新報(2016年1月5日)

その背景は

2007年のデータをもとに分析。ダイヤモンド・オンライン(2015年12月18日)
沖縄タイムス(2015年11月2日)

沖縄の経済は好調?

NHK「かぶん」ブログ(2015年5月15日)
ハーバービジネスオンライン(2015年4月19日)

関連トピックス

  1. 1沖縄 3世帯に1世帯が貧困状態 子の貧困も全国最悪沖縄タイムス1月5日(火) 10時16分
  2. 2暖冬で冬眠できず? 郡山市熱海でクマ目撃情報福島民友新聞1月5日(火) 13時23分
  3. 3「雪がない」福井のスキー場悲鳴 好天続き4カ所営業できず福井新聞ONLINE1月5日(火) 8時21分
  4. 4環2ようやく全通へ 完成しない東京の環状線の謎乗りものニュース1月3日(日) 9時27分
  5. 5駅構内放送に質問、聞き直した駅員殴る 傷害容疑で男逮捕/熊谷署埼玉新聞1月2日(土) 22時0分
格差社会1017USERS
沖縄県2500USERS子どもの貧困1272USERS

転載元: 原典聖書研究

沖縄/戦後から続く貧困

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2015/09/09 に公開
厚生労働省が発表した平成24年度の子どもの貧困率は16.3%と過去最高。6人に1人の割合で子どもが貧困状態に該当する。また2007年の都道府県別貧困調査では沖縄県の貧困率は29.3%と全国で最も高かった。(山形大学人文学部、戸室健作准教授発表による)

「子どもの貧困率」が高まる一方、その実態は見えにくいようだ。



「自分が住んでいるすぐそばで、子どもがご飯を食べられていない現状があるなんて気がつかなかった」

こどもフードバンク沖縄・代表の砂川和美さんは話す。



砂川和美さんは食べ物を満足に食べられない子どもたちが増えていることを新聞記事で知り、夫の砂川正広さんと共に「子どもフードバンク沖縄」を立ち上げた。同団体は2014年11月にスタートし、子どもがいる困窮した家庭や子どもたちの多い家庭に対して無償で食糧の提供をしている。また食料を提供している家庭ごとに、他にサポートを必要としている家庭がいないか聞き込み調査を行うことで支援活動を広げている。提供する食糧は、企業や個人、公的機関からの寄付が元になっている。



■1日の食事が給食だけの子どもたち



娘が市で沖縄の中でも経済的に厳しい家庭が多い地区の小学校に通っていたので、「実際どうなの?」と聞いた。そしたら給食の時間だけ来て、給食だけ食べて帰る子がいるんだよと教えてくれた。驚いて、「その子はご飯ないの?」と聞いたら「そうだよ。給食しか食べてないんだよ」って。それで少しずつ実態がわかってきたんです。と正広さんは話す。   
  関東に住んでると、ちょっとお腹空いた時に戸棚開けると家にも会社にも届く範囲で食べ物探せますが、困窮した家庭では本当に食べ物がない。戸棚開けても冷蔵庫開けても空っぽ。おやつも食べれずご飯も食べられない子どもたちがいる。給食があるときはまだいいですけれど、給食1日一回ですよね。夏休みになると、一ヶ月食べられない子どもたちが本当にいる。そういうことを知って欲しいと思います。

東京から沖縄に移住し現在子どもフードバンクの活動に携わっている渡辺明日香さんは言葉を強めた。



■戦後から続く負の連鎖

沖縄市教育委員会の調べによると、沖縄市内で最も就学援助率(※)が高い校区では、利用率が48%にも登る。(平成26年度時点)

同校区付近には、戦時中に戦争孤児院のための孤児院があった。同孤児院からもらわれていった子どもの中には教育や躾けを十分に受けられず、労働者として働き生き延びるも、そういった子どもたちが親世代になった時に、子どもを躾けたり、教育をすることができない。そこで再び教育を充分に受けられない子どもが育ち、また大人になっていく。その連鎖が繰り返され今の貧しさにつながっている背景がある。

また本土は社会保障や経済成長が進む一方で、沖縄はアメリカ軍に統治されていたことで制度の整備が遅れた。その時に生じた格差が今も埋められないでいると正広さんは説明する。



* * *     戦争の与えた影響が現在にも残り、次の世代への連鎖が今も繰り返されている。しかしその一方で、自らが住む地元に目を向け行動を起こす大人たちが増えていく。長年支援活動をしてきた人もいれば、砂川さんご夫妻のように活動を始めたばかりの人もいる。1人ができる範囲は限られているが、こういった関心の輪が広まればと思う。

(※)

就学援助とは、生活保護受給者もしくは市民税が非課税世帯に対し、小・中学生の学用品費や通学費、医療費、給食費、修学旅行費などを支給する制度のこと。

「平成27年度版 子ども・若者白書」によると平成24年度における就学援助率を受けるとか子どもの割合は15.6%(過去最高)となっている。

ーーーーーー



子どもフードバンクおきなわ < http://kodomo555.ti-da.net/

2014年11月に設立。経済的に困窮しているひとり親世帯や子どもたちの多い家庭に対して食のサポートを行っている。


www.okinawatimes.co.jp/articles/-/49977 - キャッシュ
沖縄の労働者の所得が低いのは、沖縄の経営者が給料を十分に支払わないからだ。 しかしながら、経営者だけが悪者かといえば、ことはそれほど単純ではない。沖縄の 労働者はまるで自分から貧困を選択するかのような行動をとりがちなのだ(*注1)。
www.huffingtonpost.jp/.../diamond-online-okinawa_n_16617... - キャッシュ
2017年5月15日 - 日本国内における子どもの貧困率の2倍近い、沖縄県の子どもの貧困率。全国で もっとも高く、より深刻な状況となっている。沖縄県の貧困の連鎖の実態と、求められる 対策について、NPO「しんぐるまざあず・ふぉーらむ」沖縄代表の秋吉晴子 ...
diamond.jp > HOME > 社会 > ニュース3面鏡 - キャッシュ
2017年5月10日 - 日本国内における子どもの貧困率の2倍近い、沖縄県の子どもの貧困率。全国で もっとも高く、より深刻な状況となっている。沖縄県の貧困の連鎖の実態と、求められる 対策について、NPO「しんぐるまざあず・ふぉーらむ」沖縄代表の秋吉晴子 ...
toyokeizai.net > ... > ライフ > 貧困に喘ぐ女性の現実 - キャッシュ
今回、平均年収全国最下位、離職率全国1位に苦しむ沖縄貧困問題を考えるルポを お届けする。このルポは「総論」を語るものではなく、あえて「個人」をクローズアップして いる。そこから浮かび上がってくる真実があると信じているからだ。
www.dailyshincho.jp/article/2016/06070601/?all=1 - キャッシュ
さらに、沖縄の「でき婚」率や若年出産率、シングルマザー世帯の出現率も高く、構造的 に「貧困世帯」を生み出しやすい社会になっている。政府が2016年度の予算案に「沖縄子供の貧困緊急対策事業」10億円を計上し、現在、沖縄本島の各市町村が生活困窮 ...
shigumaru.com > HOME > その他 - キャッシュ
2017年5月18日 - 離婚率・貧困率の高さや就労における様々な社会問題がメディアで取り沙汰されている 沖縄県。様々な人が記事にはしていますが、きっと表立っていない地元目線でしか わからない実情もあることでしょう。そこに着目し、沖縄ライターが書き上げ ...
www.buzzfeed.com/jp/kotahatachi/okinawa-45 - キャッシュ
2017年5月15日 - 経済発展の阻害になる米軍基地、子どもの貧困率…。問題は山積している。
www.pref.okinawa.jp > ... > 児童福祉 > 告知・啓発事項 - キャッシュ
2017年7月4日 - 更新日:2017年7月4日. 沖縄県子どもの貧困実態調査結果概要について. 本調査は、 子どもの貧困対策を効果的に推進するため、本県における子どもの貧困の現状把握や 、貧困状態が子どもの生活や成長に与える影響について調査・分析等を目的として実施  ...
t-higashi.com > ... > 沖縄 - キャッシュ
2017年4月12日 - 上記の労働環境の悪さが原因で、最近は子供の貧困問題が深刻化しています。 貧困率 は沖縄県は全国ワーストですね。詳細は以下の記事を参考にしてください。 沖縄貧困世帯が20年間で2.5倍に!


「中国 崩壊 経済 最新」中国人向けリゾート建設!奄美大島が荒らされる!

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[転載]琉球弧

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琉球弧(リュウキュウコ)とは - コトバンク

デジタル大辞泉 - 琉球弧の用語解説 - 九州の南から台湾へ弧状に連なる島列。南西諸島弧。 MENU コトバンク コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。 琉球弧(読み)リュウキュウコ デジタル大辞泉 の解説 りゅうきゅう‐こ ...




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琉球諸島 - Wikipedia



琉球諸島(りゅうきゅうしょとう、琉球語:Ruucuu-reptoo[1])は、南西諸島の中の琉球国に属する部分の総称。これを現在の沖縄県と同範囲にするかどうかは諸説あり、奄美群島を含めたり、大東諸島を含めない場合もある。

琉球諸島に含まれうる諸島

大東諸島については、サンフランシスコ平和条約第三条で「北緯二十九度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む)」と規定され、また、沖縄返還に関する日米間の条約の名称が「琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定」とされるなど、琉球諸島に含まない場合がある。
尖閣諸島については、先島諸島に含めない場合と含める場合とが有り、琉球諸島にも含めない場合[2]と含める場合[3]とが有る。

琉球列島・琉球弧

同様な用語として琉球列島琉球弧があり、この定義は分野や対象、研究者によっても異なる。
例えば、『広辞苑 第6版』[4]では琉球弧を大隅諸島から台湾までとしており、『地理用語集』[5]では琉球列島と南西諸島を同義としている。
生物学では、生物地理の観点から九州から台湾間の弧状列島、つまり大隅諸島から八重山諸島まで島々を琉球列島と定義し、この場合も大東諸島及び尖閣諸島を含めない[6]。一方植物相などでは、大東諸島及び尖閣諸島も含める場合もある[7][8]。大隅諸島とトカラ列島の間に分布境界線が設置されており、これを渡瀬線[9]という。

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琉球弧の画像

bing.com/images

JAL国内ツアー - 宮沢和史プロデュース「琉球弧の唄と自然を ...

www.jal.co.jp/domtour/kyu/tokunoshimanotabi
九州の南から台湾にかけて、 弧を描くように連なる島々。 青い海、豊かな緑、咲き乱れる花々、 多様性のある生き物… 美しい自然とは対照的に、 琉球弧の島々は時に悲しい歴史も秘めています。 島の唄はエンターテインメントで ...



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琉球弧研究支援(本学学生対象) | 沖縄大学

www.okinawa-u.ac.jp/chiken/ryukyu-study
琉球弧研究支援(本学学生対象) 沖縄大学では「地域に根ざす大学」を理念に掲げています。地域研究所ではその実践として学生が実際に現地に足を運び、フィールドワークを通して学ぶことを奨励する「琉球弧研究支援」プログラム ...

木原盛夫写真展「琉球弧万華鏡」||ミュゼふくおかカメラ館 ...

www.camerakan.com/exhibition/...
木原盛夫写真展(高岡市福岡町出身) 琉球弧万華鏡~自然・祈り・芸能・基地…すべては日常にある~ 【同時開催】「しまねこ」「古の雅 いにしえのみやび」 リゾートだけでなく、基地だけでもなく。翻弄された歴史から生まれた ...

ASCD-2013 唄綵(うたづな)ー琉球弧を往還する謡たち / 大工 ...

www.offnote.org/SHOP/ASCD-2013.html
花綵の謡と唄の記憶を辿って。琉球弧の島々を往還して運ばれた謡と唄の奇蹟的邂逅。八重山諸島~沖縄本島に伝わる異名同曲を集めて繋ぐ。現役最高唄者四人、夢の共演による画期的南島歌謡集。

転載元: 環境・歴史・観光・防災・家族を想う、さすらいカメラマン


[転載]沖縄県の歴史

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沖縄県の歴史

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復元された首里城
沖縄県の歴史年表



沖縄諸島先島諸島
旧石器時代先島
先史時代
貝塚時代


グスク時代
三山時代
北山中山南山



第一尚氏王統
第二尚氏王統

薩摩藩支配)

沖縄県

アメリカ合衆国による沖縄統治
沖縄県
主な出来事
関連項目
カテゴリカテゴリ - コモンズコモンズ
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沖縄県の歴史(おきなわけんのれきし)は、現在の沖縄県にあたる領域を中心とした歴史である。沖縄県となる以前の、先史時代、琉球王国時代、琉球藩時代もここで述べる。

琉球と沖縄の名称

琉球国金丸世主書状(1471年)。島津宛の金丸(尚円王)の書状で、琉球国の表記が見える。

 「琉球」の表記は、『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷傳 流求」(607年大業3年)と翌年の記事)が初出で、その後、「流鬼」(『新唐書』)、「瑠求」(『元書』)などと様々に表記され、「琉球」に落ち着いたのは時代以降である[1]。明以前の「琉球」が現在の沖縄県周辺を指していたかは判然とせず、台湾を指していたという説や、あるいは単に中国大陸の東方にある(日本以外の)島々を漠然と指していたという説もある。

 「おきなわ(おきなは、あこなは)」の呼称の由来は定かではないが「おもろさうし」には「おきなわ」という名の高級神女名が確認される。このことは「おきなわ」なる御嶽があったことを示唆している。日本の文献として、鑑真の伝記『唐大和上東征伝』(779年)(淡海三船著)の中に、「阿児奈波」と出てくるのが初出である。
 「沖縄」という漢字は日本語的な当て字であるが、これは新井白石の『南島誌』(1719年)が初出で、これは新井が長門本『平家物語』に出てくる「おきなは」に「沖縄」の字を当てて作ったと言われている。この「沖縄」という名称が琉球処分後、日本の領土であることを示すため、「琉球」から沖縄に呼称が改められ、沖縄県として県名に採用され、今日では一般化している。[2]

 この間、明との交易が始まった14世紀以降には、琉球王国は自国の国号として「琉球国」(琉球國)を用い、琉球処分により、琉球藩、ついで沖縄県が設置されたが、沖縄県設置後においても地名としては、日本の旧国名(令制国名)として琉球国と呼ばれたりしたが、やがて県名に変って行った。

 「琉球」は中国が名付けた他称で、「沖縄」は本島の住民が周辺の島々や宮古、八重山に対する本島を指すことが語源で、沖縄固有の言葉に基づく名称である。[3]

 なお14世紀以後中国では沖縄本島を「大琉球」、台湾を「小琉球」と呼称したりしていたことがあるため、両者が史書等で混同されることも多かった。

先史時代


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 沖縄県には本土のような縄文時代弥生時代のような区分は行わない。先史時代は土器出現以前の後期旧石器時代と土器出現後の貝塚時代縄文時代 - 平安時代)とに分けられる。





旧石器時代

  沖縄県にいつ頃から人類が現れたのかは不明だが、現在の南西諸島は、最終氷期にはアジアと陸続きであり、その頃に様々な動物と共に移り住んできたものであろう。県内最古の人骨は那覇市で見つかった山下洞人で、今からおよそ3万2千年前のものだと推測されている。
  また、1967年具志頭村(現在の八重瀬町)で発見された港川人骨はおよそ1万8000年前のものとされ、日本で初めて見つかった完全な形に近い旧石器時代人骨として有名である。化石人骨は沖縄本島を中心に、久米島伊江島宮古島石垣島からも見つかっている。



  長らく、県内からは確実な「旧石器」の報告例はなかったが、南城市サキタリ洞遺跡で1万2千年前の石器と人骨が発見されたことが2012年に報告された。このほかにも、一部に旧石器らしき石器はあるが、研究者の間で評価が定まっているとは言いがたい。
 北辺の鹿児島県奄美群島からは細石器がみつかっている。また、以前はV字状に加工したようなシカの骨を「叉状骨器(さじょうこっき)」としていたが、多くはシカが異食症によって骨を噛んでできたものとする説が有力である。

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 港川人の年代から、続く貝塚時代までの約1万2000年間の遺跡はほとんど発見されておらず、長らく空白期とされてきたが、近年では上記のようにサキタリ洞などでこの間の空白を埋める人骨や石器が発見されつつある。

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沖縄貝塚文化

 貝塚時代は、縄文時代にあたる貝塚時代前期と、弥生時代から平安時代にあたる貝塚時代後期に大きく分けられる。前半については本土の縄文時代中期頃から遺跡がみられるようになる。狩猟採集経済で縄文土器に類似する波状口縁の土器をもつことなどから「縄文時代」の名称を使用する場合もあるが、縄文時代・縄文文化とするかは意見が分かれる。
 後期は、海岸砂丘上に遺跡立地が移動し、主に漁撈を中心とした生業と考えられている。弥生時代の特徴に稲作(水稲耕作)があげられるが、現時点で弥生時代にあたる時期の水田はみつかっておらず、農耕がはじまるのは貝塚時代後期の末である。弥生土器など弥生時代の遺物の流入はみられるものの、弥生文化の影響はあまり見られず、むしろ独自色が顕在化する時期である。
 また貝の道と呼ばれる、貝輪などの貝製品の材料となる南西諸島に生息する貝を日本本土へ(遠くは北海道まで)大量に運ばれたことが知られている。また、奄美地方では螺鈿細工の原料となるヤコウ貝の集積地が存在し唐代貨幣(開元通寶)が発見される事から九州地方の商人の活動が推定されている。 

 縄文文化の影響が強かった沖縄諸島に対し、先島諸島宮古諸島八重山諸島)ではかなり違った様相が見られる。縄文時代に当たる古い時期には、厚手平底の牛角状突起がある下田原(しもたばる)式土器などが見られる。
 これらは縄文土器よりも台湾先史時代の土器との共通点が指摘されており、この時期には縄文文化と異なる東南アジア系の文化があったとも考えられる。その後約2500年前から先島諸島は無土器文化の時代に入るが、この時代もシャコガイを用いた貝斧など東南アジアとの関連性を示唆する遺物がみられる。約800年前ごろになると徳之島産のカムイヤキや長崎産石鍋やそれを模倣した鍋形土器などがみられるようになり、本島地方と近しい文化をもつようになる。

 古代史では、『続日本紀』の記録として、714年和銅7年)に「信覚・球美」などの人々が来朝したと記されている。新井白石は「信覚」は石垣島、「球美」は久米島に比定している。また753年天平勝宝5年)には鑑真が渡航の途中「阿児奈波島」に漂着したとされ、これは沖縄本島のこととされる。
 これ以後の沖縄の名称は長らく記録から消える。これらの古代史料から、7世紀から8世紀にかけての南西諸島社会は身分が形成され階級社会へ向かっていたとする説や政治的社会が形成されつつある社会との説が出されている。

古琉球

 沖縄県における農耕の痕跡のうち最古のものは紀元前8世紀頃のものだが、本格的な農耕社会が成立したのは12世紀頃だとされている。農耕社会が成立してから、島津氏の侵攻(1609年)までを「古琉球」と呼ぶ。

神代

 琉球王国正史中山世鑑』や、『おもろさうし』、『鎮西琉球記』、『椿説弓張月』などでは、12世紀源為朝(鎮西八郎)が現在の沖縄県の地に逃れ、その子が琉球王家の始祖舜天になったとされる。真偽は不明だが、正史として扱われており、この話がのちに曲亭馬琴の『椿説弓張月』を産んだ。日琉同祖論と関連づけて語られる事が多く、この話に基づき、大正11年には為朝上陸の碑が建てられた。表側に「上陸の碑」と刻まれて、その左斜め下にはこの碑を建てることに尽力した東郷平八郎の名が刻まれている。
 『中山世鑑』を編纂した羽地朝秀は、摂政就任後の1673年3月の仕置書(令達及び意見を記し置きした書)で、琉球の人々の祖先は、かつて日本から渡来してきたのであり、また有形無形の名詞はよく通じるが、話し言葉が日本と相違しているのは、遠国のため交通が長い間途絶えていたからであると語り、王家の祖先だけでなく琉球の人々の祖先が日本からの渡来人であると述べている[4]
 なお、最近の遺伝子の研究で沖縄県民と九州以北の本土住民とは、同じ祖先を持つことが明らかになっている。高宮広士札幌大学教授が、沖縄の島々に人間が適応できたのは縄文中期後半から後期以降である為、10世紀から12世紀頃に農耕をする人々が九州から沖縄に移住したと指摘[5]するように、近年の考古学などの研究も含めて南西諸島の住民の先祖は、九州南部から比較的新しい時期(10世紀前後)に南下して定住したものが主体であると推測されている。

 また天の最高神(アマミクまたはアマミキヨ)が琉球の島々をつくり、夫婦の神を島に遣わしたという。夫婦神は島で三男二女をもうけ、長男は国王の祖先となり、彼の子孫を天孫氏と言う。また次男は諸侯の、三男は農民の、長女は君々(高位の神女)の、次女はノロ(巫女)の先祖となった。天孫氏は25代に亘って沖縄本島を支配したが、およそ12世紀末頃に地方豪族(按司・あじ、後述)が各地で反乱を起こし、天孫の重臣である利勇(りゆう)が王を弑し自ら僭称す。
 しかし各地の按司は彼に従おうとせず、浦添按司である舜天が利勇を討ち取って国を統一した。舜天の家は3代にかけて支配したが、第3代義本によって英祖禅譲が行われて断絶した。英祖は5代にわたって治めたという(英祖王統)。

 宮古島にも別系統の創造神話がある。詳しくは宮古島#神話の項を参照。

古代

  『日本書紀』では616年推古天皇24年)に掖久・夜勾・掖玖の人30人がやってきて、日本に永住したという記事が見られ、629年舒明天皇元年)には大和朝廷から掖玖に使が派遣されたという記載や、677年(天武天皇6年)に多禰島人を饗したとか、679年(天武天皇8年)に朝廷から使を多禰島に遣わしたという記事などが見られる[6]
  また、682年(天武天皇11年)には、朝廷から多禰人・掖玖人・阿麻彌人(奄美人)それぞれに禄を賜るという記事があり、掖玖(ヤク)を、初めて、特定の屋久島をさすような言葉として並列し区別するような記載がなされたが、それ以前は、古代日本ではこの地方の交易品である「ヤコウ貝」のことを「ヤク貝」とよんでいるので、7世紀末以前までは「ヤク」とは、必ずしも特定の島をさすものではなく、九州以南の地域を指す言葉として用いていたようである。

  『続日本紀』には、698年(文武天皇2年)に朝廷の命により、務広弐文忌寸博士南島(なんとう)(南西諸島)に派遣されたとある。このときの文忌寸博士の任務は屋久島、種子島、奄美大島の朝貢関係を確認することにあり、699年(文武天皇3年)に多褹・掖玖・菴美・度感から朝廷に来貢があり位階を授けたと記載がある。
 
  これ以降、朝廷は種子島に国司を派遣するとともに、久米島や石垣島にも服属を求める使者を派遣している。715年(元明天皇和銅8年)には南島の奄美・夜久・度感・信覚・球美の島民が来朝し貢上したという記載があり、蝦夷の人々とともに南島の人々に位階を授けたとある。他にも720年(元正天皇養老4年)に南島人232人に位を授け、また727年(聖武天皇神亀4年)に南島人132人に位階を授けた、などの記載がある[6]

 これらのことから、九州以南の島々をこう呼んでいたとともに、これら現在の日本の南西諸島に属する島々が朝廷に貢献していたことを示している。

中世

グスク時代

グスク跡(世界遺産

 12世紀ごろから琉球でも稲作・畑作を中心とした農耕社会に移行し、文明の度合いが色濃くなってきた。農耕を基盤とした社会が成立すると、集落は海岸部から農耕に適した台地に移る(貝塚時代後期後半には遺跡が台地上に移行する)。この時代をグスク時代と呼ぶ。

 この時代は日本本土や中国大陸との交流が盛んで、中国だけでなく東南アジアの陶磁器も輸入されており、アジア貿易の中継点としての重要性をましてきた。これらで力をつけた有力者は地元の農民を束ねて豪族(按司・あじ)となり、石垣で囲まれた(グスク)を築き、周辺の集落を傘下に入れ小国家へと発展した。舜天英祖といった王朝初期の王も、この頃の有力な按司のことであったと考えられる。日本から平仮名が導入され(1265年に日本僧禅鑑が伝えたとも言われる)、表音文字として文書全般に利用されたほか、中国や東南アジアとの交流もあり、これらが融合してその後の琉球文化の基となった。琉球の信仰ノロといわれる女性祭司の力が非常に強いシャーマニズム的なもので、古い神道にも近い要素がある。後に仏教も伝来した。
 1291年元軍が襲撃した「瑠求」は台湾のことであり、元軍を英祖王が撃退したという話は「瑠求=琉球」と誤認したことから生じた空想である[7]

三山時代

三山時代の勢力図

 14世紀に入ると各地の按司を束ねて三つの国にまとまった。英祖王統を滅ぼした察度が治める中部の中山、承察度が治める南部の南山(山南)、怕尼芝が治める北部の北山(山北)である。この時代を三山時代と呼び、約100年続いた。いずれも中国の朝に朝貢し、正当性を主張するなどして争いあったが、その中から察度の子・武寧を滅ぼした尚巴志の中山が勢力を増し、統一への動きを見せた。

 三山の中で、南山の佐敷按司で

転載元: 海洋文化交流/貿易振興

[転載]港川人&沖縄県立博物館

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港川人

   
港川人の復元模型。国立科学博物館の展示[1]。模型制作時は港川人は縄文人の祖先と思われていたため、日本人に似せて模型が作成されたが、後年、最新機器を使った人骨再調査によりこの模型とは異なり、オーストラリア先住民やニューギニアの集団に近い復元図が発表された [2]

 港川人(みなとがわじん、Minatogawa people)は、約20000~22000年前に日本沖縄県に存在していたとされている人類
港川人(港川1号)の化石(レプリカ)。国立科学博物館の展示。

 1967年[2]から1970年[5]、沖縄県島尻郡具志頭村港川(現在の八重瀬町字長毛)の海岸に近い石切場で骨が発見された。この人骨は、全身骨格の形で残っている日本の人骨の中で最も古いものである[3]

 身長は男性で約153〜155cm[6]、女性で約144cm[要出典]であった。全体的に小柄で腕は細めで胴長なのに対して手は大きく、下半身がしっかりとしていたとされている。また、顎ががっしりしていて、硬いものも食べていたとされている。

 かつて港川人は縄文人の祖先ではないかと考えられてきた[7]が、2009年の研究で、港川人を縄文人の祖先とする考えに疑問を投げかけるような分析結果が出ている。港川人は現在の人類ならば、オーストラリア先住民やニューギニアの集団に近いのではないかという説である。 国立科学博物館の海部陽介研究主幹によると、港川人は本土の縄文人とは異なる集団だった可能性がある。つまり、港川人は5万〜1万年前の東南アジアやオーストラリアに広く分布していた集団から由来したことになる。その後に、農耕文化を持った人たちが東南アジアに広がり、港川人のような集団はオーストラリアなどに限定されたのではないかと述べられている[2][5]

 沖縄県立博物館・美術館には「港川人復元像」が所蔵されている。また、八重瀬町立具志頭歴史民族資料館には、常設展示の1つとして港川人コーナーがあり、全身骨格のレプリカやこれまでの研究成果が紹介されている。
2014年には、港川と近距離の沖縄県南城市のサキタリ洞遺跡で少なくとも9000年以上前の人骨が発掘され、調査が進められている[3]

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港川(みなとがわ)採石場跡にある旧石器時代の遺跡。1967年~1972年にかけて、大山盛保氏によって港川石のフィシャー(石灰岩)内から約1万8000年前のものと推定される化石人骨が発見され、「港川人」と名付けられました。発掘された化石の骨格から、港川人は発達した筋肉を持ち、背の低いがっしりとした体格であったことがわかります。




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ホーム > ご利用案内 > 交通・時間・料金

沖縄県立博物館・美術館交通・時間・料金

1 ご案内

主な交通
沖縄モノレール・バス・タクシー
路線バス
おもろまち駅前下車(琉球バス、沖縄バス、那覇交通)
バス
那覇空港発 99番線 おもろもまち3丁目バス停下車 徒歩5分
那覇空港発 120番線 上之屋バス停下車 徒歩10分
市内線 3・7・10番線 県立博物館前バス停下車
市内線 6番線 那覇メインプレイス東口バス停下車 徒歩5分
市外線 バイパス経由 おもろまち駅前バス停下車  徒歩10分
おもろまち行 おもろまち1丁目バス停下車  徒歩3分
沖縄都市モノレール
ゆいレール おもろまち駅下車 徒歩10分
中北部から
空港線及びおもろまち行各社バスで交通広場下車徒歩5分
南部から
バスターミナルから沖縄モノレール乗り換えおもろまち下車徒歩10分
空港から
沖縄モノレールおもろまち下車徒歩10分
タクシーで、博物館・美術館まで、約30分



常設展(総合展示)

 常設展は、総合展示と専門分野ごとの部門展示からなり、沖縄の自然・歴史・文化を、「海洋性」と「島嶼性」という二つの側面から読み解いていきます。
古来より、沖縄の島々は海によってたがいに隔てられると同時に、海によってアジア、太平洋地域と深く結びつけられてきました。島には固有の自然があり、人々の営みがあり、そのひとつひとつが沖縄県の特徴ある自然・歴史・文化を形作っています。島に息づく豊かな自然と、島をとりまく海を媒介とした人々の営みを紹介するとともに、トー(唐:中国)とヤマト(日本)との間で花開いた琉球王朝文化、そして目まぐるしい世替わりを体験してきた沖縄の近代史と戦中、戦後史を射程に入れ、常設展のメインテーマを「海と島に生きる-豊かさ、美しさ、平和を求めて-」としました。

総合展示

 常設展へのアプローチでは、イノー(ラグーン)に広がるサンゴ礁を足元に見ながら、あたかも島に上陸するような感覚を体験することができます。そして正面のサークルホールでは、琉球列島の成り立ちと生物の進化をテーマとした映像とともに、1万8千年前の原始の沖縄に暮らした港川人とその時代の動物相の再現模型が展開します。
  これに続く総合展示では、「海で結ばれた人々」から「沖縄の今、そして未来へ」まで各テーマに沿って、沖縄の豊かな自然と海からの恵み、そしてそこにくらした先人たちの歴史・文化をたどっていきます。


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 また、展示室中央に設けられた「シマの自然とくらし」のコーナーには、鹿児島から台湾まで東西1000キロ、南北400キロの海域に散在する琉球列島の大小の島々を壮観できる大型ジオラマを配置し、島々の特徴ある自然・歴史・文化を情報端末機を用いて紹介しています。また、人工衛星によって撮影された画像を用いて、島々を観察することができます。

プロローグ ニライカナイの彼方から

 常設展へのアプローチです。足下にサンゴ礁を見ながら、沖縄へ上陸するイメージを演出しています。

1 海で結ばれた人々
サークルホールの展示

 「化石の宝庫・沖縄」から発見された、さまざまな化石を展示しています。クジラやアンモナイトなど、原始の海にくらした生き物をはじめ、1万8千年前の日本人のルーツと目される「港川人」や、その頃に生きていたリュウキュウジカ、ヤンバルクイナなどの化石が、ステージ上に展開します。また、正面のスクリーンでは、古生代から現在に至るまでの琉球列島の地史を映像で概観し、沖縄の自然・歴史・文化の旅へと誘います。

       
古我地原貝塚模型
 うるま市石川で発見された古我地原貝塚の発掘調査にもとづき、縄文人の生活を復元しています。東側に海を望む台地上に、小さなグループで暮らしていた縄文人たちの竪穴式住居や、ゴミ捨て場である貝塚など、縄文人の生活をみることができます。

2 貝塚のムラから琉球王国へ

 
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   グスク時代になり、それぞれの地域に有力者が登場するようになると、防御などを目的とした、さまざまなグスクがつくられていきます。また、有力者たちは中国への朝貢を通して文化の移入や交易に努め、富が築かれていきました。各地の勢力は、やがて北山、中山、南山の3つに収斂し、激しい抗争を繰り広げます。これらの3つの勢力は、15世紀はじめまでに尚巴志によって統一され、琉球王国が築かれました。ここからおよそ500年の長きにわたり、首里を拠点とする王国の歴史がはじまります。


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概要

 江戸上りは、薩摩琉球侵攻後の1634年から、幕末の1850年まで間に18回行われた。これらには、琉球国王即位の際に派遣される謝恩使と、幕府将軍襲職の際に派遣される慶賀使とがあった。
なお、1873年明治維新の慶賀使が上京したが、これは通常「江戸上り」としては数えない。

旅程・道中

天保3年(1832年)の琉球使節

 六月ごろ季節風に乗り琉球を出発、薩摩山川港に至る。琉球館にてしばらく滞在し、九月ごろ薩摩を出発、長崎を経て下関より船で瀬戸内海を抜けて大阪に上陸。京都を経て東海道を東へ下り江戸に着くのは十一月ごろである。1~2ヶ月ほど滞在し、年が明けてから江戸を出発、大阪までは陸路、その後海路にて薩摩を経由し琉球へ戻る。ほぼ一年掛かりの旅であった。

 その道中は「異国を支配する薩摩藩」および「異国からの使節の来訪を受ける幕府」を前面に出すことによって両者の権威高揚に利用された。

文化交流

 使節には、琉球音楽を演奏したり琉球舞踊を踊るための要員も含まれており(御座楽の項を参照)、特に路次楽は江戸上りのルート上にある地域の農村芸能にも影響を与え、また将軍や幕閣の前でも披露された。その他、随行員には和歌・茶道をはじめとする諸芸能に通じている者も派遣されており、これらの人的交流を通して中国と日本の文化が渾然一体となった琉球独自の文化が形作られていった。

江戸上り18回の詳細

  • 第1回の江戸上りでは、実際は京都に滞在し、江戸下向はなかった。
  • 第1回・第7回・第8回は慶賀使と謝恩使が同時に派遣された(下表参照)。
  •  第11回の慶賀使の薩摩藩側の引率者は平田靱負
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3 王国の繁栄

 琉球王国は独自の国家として成立しましたが、国内権力基盤の不安定さによって、第一尚氏から第二尚氏へ王統の交代が起こりました。この時代、中国との冊封・朝貢貿易を確立していた琉球は、中国・日本・東南アジアをつなぐ中継貿易を行います。東アジアの大海原の架け橋として船を操り、国際色豊かな産物が国中にあふれるさまを謳った旧首里城正殿鐘の銘文は、往事を偲ぶ貴重な資料です。ここでは、東アジア有数の貿易国家として繁栄したあと、より強固な国家体制がつくられた琉球王国の時代を紹介します。

4 薩摩の琉球支配と王国

 1609年、薩摩島津氏の侵攻によって琉球は江戸幕府の影響下に置かれましたが、中国との関係は引き続き維持されました。羽地朝秀、蔡温など政治家の強力なリーダシップによって、王国の経営が行われ、近世文化が創造されていきます。
  またこの時代、貝摺奉行所などによって優秀な工芸品が多くつくられるとともに、「中山世鑑」、「球陽」などの歴史資料が数多く著されました。


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 琉球王国(りゅうきゅうおうこく)は、1429年から1879年の450年間、沖縄本島を中心に存在した王国。当時、正式には琉球國(りゅうきゅうこく、沖縄方言:ルーチュークク)と称した。

 最盛期には奄美群島沖縄諸島及び先島諸島までを統治した。この範囲の島々の総称として、琉球列島(琉球弧)ともいう。王家の紋章は左三巴紋で「左御紋(ひだりごもん、フィジャイグムン)」と呼ばれた。
勢力圏は小さな離島の集合で、総人口17万に満たない小さな王国ではあったが、隣接する大国海禁日本鎖国政策の間にあって、東シナ海の地の利を生かした中継貿易で大きな役割を果たした。その交易範囲は東南アジアまで広がり、特にマラッカ王国[1]との深い結び付きが知られる。 

 外交的に貿易上の理由から、明及びその領土を継承した清の冊封を受けたりしていたが、1609年に日本の薩摩藩の侵攻を受けて以後は、薩摩藩による実質的な支配下に入った。ただし対外的には独立した王国として存在し、中国大陸、日本の文化の影響を受けつつ、交易で流入する南方文化の影響も受けた独自の文化を築き上げた。


5 王国の衰亡

 中国・日本という両大国との関係を維持しながら、王国を維持してきた琉球ですが、19世紀に入ると矛盾が深まります。農村の疲弊や首里王府の財政難などが原因で、王国の経営は行き詰まりが顕著となりました。さらに、アジア進出を目指す欧米諸国の外圧が琉球に押し寄せ、王国は危機的な状況に陥ります。


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転載元: 海洋文化交流/貿易振興

[転載]中世の琉球交易 中国との冊封関係による進貢貿易・朝貢貿易

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中世の琉球交易
1. 中国との冊封関係による進貢貿易・朝貢貿易
 いつの時代でも海は、人と人を結び付ける文化や経済の大動脈である。球王国の誕生と発展
は、船による外国との交易や政治・文化交流によるところが大きかった。

 琉球史では、12世紀から14世紀後半までをグスク時代とよばれ、各地に海を見渡すことの
できる小高い丘に石垣をめぐらし、豪族の城であり、祭祀施設でもあるグスクが多く作られ
た(現在、今帰仁(なかじん)城跡、中城(なかずすく)城跡、勝連城跡、座喜味城跡などが
残っており、世界遺産となっている)。
この時期、沖縄において外国との交易が盛んに行われてい
たと考えられている。14世紀から16世紀になると、琉球は中国・朝鮮・東南アジア諸国・日
本との仲介・中継貿易が本格的に始まり、利益を上げた。
 特に15世紀、琉球の統一王朝である第一尚氏時代から第二尚氏時代の初期にかけ
て、中国の明との間で外交において冊封(さくほう)関係を結び、進貢(しんこう)貿易・朝
貢(ちょうこう)貿易を中心とした活発な海外貿易を展開した。

 1368年に成立した中国の明王朝は、諸外国に対して冊封・進貢政策をとった。冊封とは、
中国の明の皇帝がその権威において外国の王(ここでは琉球王ということになる)の地位を
認めることをいう。具体的には、冊封というのは、朝貢の礼に対し、その国王に「なんじを封(ほ
う)じて国王とする」という勅書を与えることである。
 進貢・朝貢とは、冊封をうけた外国の王は文書・貢物を使者に持たせ中国の皇帝へ献
上し、皇帝への忠節、恭順を示す外交関係である。

 冊封関係を結ぶことによって中国との正式な貿易が許された。これが進貢貿易・朝貢貿易
である。この冊封関係は、琉球のみならず、日本、朝鮮、東南アジアとシルクロード沿いのオアシ
ス国家や遊牧国家の一部諸国も存在した。
 こうした従属関係により、中国皇帝を頂点とする前近代アジアにおける国際秩序・外交関係、すな
わち冊封関係づくりをめざしたのである。

 進貢船は、通常、秋(旧暦8-11月)に行って、春(3-4月)に帰ってきた。明朝は、国ごとに
入域港を指定し、市航司(しはくし)とよばれる入関機関を置き、琉球は福建省の泉州が指定
港となった。福建省の泉州は、当時中国の重要な海外貿易の窓口であつた。
 福建省は、伝統的に海外貿易が盛んな土地であり、東南アジア中
心に活躍していた多くの華僑の出身省であった。

 また、明朝は、貢年・貢期(こうき)という制度を設けた。中国への渡航頻度を国ごとに指
定したもので、琉球は1年に1度(年によっては1年2貢)、安南やジャワは3年に1度(3
年1貢)、10年に1度(10年1貢)といったもので、自由に中国に出かけることはできなかった(21)。

 琉球では、察度の子である中山王武寧(ぶねい)のとき(1404年)、初めて中国の冊封を受
けた。琉球は、中国とのこのような冊封関係により、1404年の中山王武寧から1866年の最
後の王尚泰(しょうたい)までの約460年間の間に、21回の中国からの冊封使を受け入れた。

 冊封使とは、中国皇帝の命を受けて中国から海を越えて琉球に赴いた使者のことである。琉球
において王が死去し、後継者が新たに即位することになった場合、琉球から中国皇帝に対して
冊封の要請(請封という)が行われ、冊封使が琉球の新しい国王の即位式典に参加する。
 正使や副使に率いられた冊封使一行は、総勢で4,500人程度の大規模なこともあったようで、
中国から海を越え、那覇港に着いた(22)。冊封使は、先代の国王の霊を慰める儀礼と、その後
継者たる新国王に封ずる儀礼(冊封)という、2つの重要なセレモニーを執行した。冊封使は、
中華帝国の伝統的な中国を中心とした国際秩序を目指す華夷(かい)思想にもともとづく冊封
体制を支える外交官としての役割を担っていたといえる(23)。

 中国(明)との貿易は、1372年琉球の3山の一つ中山王の察度(さっと)の進貢・朝貢貿
易が始まった。察度王は、貿易のみならず、留学生の派遣、中国人帰化人の受け入れなどを
行った(24)。こうして琉球の中山と明との公式貿易が開始され、それ以降察度王は、毎年のよ
うに貢物を奉る進貢使を派遣した(25)。その後、中山王にならい、1380年に南山王、1380年に
北山王が明への進貢貿易を始めた。当時の中国は、臣下(家来)として貢物をもってくる国と
しか貿易を行わなかった。3山がほぼ時期を同じくして明に朝貢したのは、中国に明という大
国の権威を背景に勢力を張り、さらにそれを利用して貿易の利をおさえて、富強になるためで
あった。

 その朝貢は中山が3山を統一したとする1429年(永享元年)までに、中山42回、南
山24回、北山11回に及んでいる。
 三山の王をはじめ、統一王朝の尚巴志(しょうはし:1422-41年)以後の王たちも貢物を
もって中国との貿易にあたる進貢貿易を行った。

 1372年の中山王察度以降約500年間、琉球は中国との進貢貿易が続いたのである。14世紀
後半、琉球から海外へ積極的に出ていく動きが本格化する。それを可能にしたのは大型船の保
有であり、朝貢の便宜をはかるという名目で明から琉球に大型ジャンクが賜与された。
 すなわち、かなりの数の大型のジャンク船が無償で明から支給され、また、大船の操縦や航海などを
有する人材が琉球に送られた(26)。

 民国は、日本にも入貢と倭寇の禁止を求めてきた。南北朝が統一された後、室町幕府の足利
義満が入貢に応じ、1401年、勘合貿易による正式な日中貿易をはじめ、倭寇の取締りを強化
した。
 明帝国の史料『明史』外国伝によると、明代270年間アジア各国から行われた進貢回数は、
安南(ベトナム)が89回で2位、シャム(タイ)は73回で6位、朝鮮は30回で10位、マラッカ(マ
レーシア)は23回で12位、日本は19回で13位であるのに対し、琉球は171回で1位、断トツであ
る。2位安南の2倍に近い頻度である(27)。
 琉球はアジア各国のなかで公式ルートを通じて最も頻繁に中国に通った実績があった(28)。その
結果として福州(初期は泉州)・那覇間に太い交流のパイプができ、この窓口をチャンネルにし
て中国商品が大量に琉球に流れ込んできた(29)。


2.琉球と中国の貿易品
 沖縄から中国への輸出貿易品は、沖縄産の硫黄(いおう)、馬、砥石(といし)、貝殻、日本
産の刀剣や銅製品、東南アジア産の蘇木(染料となる木)、胡椒、象牙などである(30)。硫黄
は北方にある硫黄鳥島で産出するもので、その試掘と権利は、国王などが握っていた。

 中国からの輸入貿易品は、陶磁器、絹織物、鉄器、銅器、漆器、書籍などである。馬は、野
生の馬ではなく、輸出用に飼育したようである。

 その後、沖縄の海外貿易が活発になるにつれ、貿易品の種類もしだいに増えた。

3.仲介・中継貿易
 琉球は、中国、日本、琉球などの品々を南方・東南アジア諸国に運び売った後に、南方・東南
アジアの品々を中国、日本、朝鮮に運び売るという、仲介・中継貿易を行った。当時の琉球(奄
美から先島諸島まで)の人口はせいぜい10万人程度であり、琉球にもたらされる商品のうち、
内部で消費されたのはごく一部にすぎなかった。

 1458年につくられた「万国津梁(ばんこくしんりょう)の鐘」には、海外に雄飛して巨万
の富を築いた海洋王国の雄姿が以下のように刻まれている(31)。

 「琉球国は南海の勝地にして、三韓(朝鮮)の秀を鐘(あつ)め、大明(中国)をもって輔
車(ほしゃ)をなし、日域(日本)をもって唇歯(しんし:輔車と唇歯はともに深い関係にあ
るという意味)となす。この二中間にありて湧出(ゆうしゅつ)する所の蓬莱島(ほうらいとう)なり。

 舟楫(しゅうしゅう)をもって万国の津梁(しんりょう:かけ橋)となし、異産至宝(いさん
しほう:外国の産物やこの上ない宝物)は十方刹(国中)に充満せり。」

 福州(初期は泉州)ルートをみると、大量の中国商品を仕入れ、それを琉球を経由して日本、
朝鮮などに運び売る、またはそれを南方・東南アジア諸国に運び売る。南方・東南アジアでは
シャム(現在のタイ)、マラッカ(マレーシア)、ジャワ(インドネシア)などが代表的な貿易地
であった。たとえば、中国の福州(初期は泉州)で商品を仕入れ、琉球を経由して、博多に
出かける。そこで商品を売って船を空っぽにし、博多で容易に入手できる日本の特産品、たとえ
ば貴金属(金、銀)や美術工芸品、日本刀などを仕入れて琉球に帰る。そして、また中国へ行
き、それらの日本と琉球の商品を売る。同じように、中国で商品を仕入れ、南方のマラッカに
行き、中国商品を売りさばいた後で、錫や象牙、香辛料などを仕入れて船を満載して帰り、中国
や日本に売る。仲介・中継貿易では、那覇と福州のあいだに太い交流のパイプが出現し、その
パイプを伝って莫大な中国商品が琉球にもたらされるようになった。

 このように、中国商人に代わって中国商品をアジア各地に供給する、この役割を琉球が担う
ことになったのである。その結果として、琉球の仲介・中継貿易は、中国との進貢貿易が順調
に推移すればするほど他のアジア諸国との貿易取引もまた順調に推移する、という構造になっ
ていた(32)。

 琉球の交易において重要な役割を果たしたのは、当時琉球にいた華人であった。福建省から
多数の中国人が琉球に移住し、居留地を形成した。那覇港に近いその居住地は、久米村であっ
た。久米村の中国人は、造船、船舶修理、航海術、中国語通訳、外交文書作成、商取引方法、
などの海外貿易においてなくてはならない存在であった。当時、南方・東南アジア各地の貿易
港は、すでに多数の中国人居住区が形成されており、彼らは居住する貿易港を拠点に活発な貿
易活動を展開していた。このような南方・東南アジアの中国人と琉球の中国人との、いわば中
国人ネットワークが、琉球の仲介・中継貿易の特徴であった。

 琉球にとって、日本は重要な交易国であった。特産物の乏しい琉球は、中国への進貢品や交易
品の多くを日本から買い入れた。また、日本は中国や南方・東南アジアから仕入れた品物をさ
ばくための市場でもあった。琉球船は、九州の博多や近畿の兵庫・堺の港などをはじめ、関東
の六浦(むつうら)まで行っている。足利幕府は、琉球奉行を置き、第一尚氏王朝と、しばし
ば文書の交換をしている。

 15世紀の後半になると室町幕府の権威が弱体化し、日本国内は戦国時代といわれる混乱し
た状況になった。海上では私貿易や海賊行為をおこなう、中国人を主体とした倭寇の活動が活
発となり、琉球船はしだいに日本から遠ざかっていった。かわりに、堺・博多・坊津などの日
本商船が琉球にやって来て貿易をするようになった。特に、堺商人が、単独で琉球貿易に進
出するようになった。そのため、琉球船の交易は、それ以降九州に限定され、博多と坊ノ津が
その中心となっていった(33)。

 琉球から日本への輸出品は、中国産の生糸・絹織物、南方・東南アジア産の皮革、香料・薬
種などで、日本からは日本刀、漆、扇、漆器、屏風、銅などを輸入した。琉球から日本へ貿易
のために渡航することを、ヤマト旅と称した。

ヤマト旅には、室町幕府に使節を送り交易する形態と、堺・博多などの民間商人と取引をする
方法とがあった。琉球からもたらされた品々は、上流階級のあいだで重宝がられたといわれ、幕
府も琉球貿易を奨励した(34)。


4.南方・東南アジアとの交易
 13世紀ごろから、琉球船は南方・東南アジア方面、シャム王国(現在のタイ)やマラッカ
(マレーシア)までおよんだ。琉球船は、そのほかに安南(ヴェトナム)、スマトラ、ジャワ(イ
ンドネシア)などにも交易し、那覇には諸国の船が集まった。

 15世紀から16世紀ごろの第1尚氏時代と次の第二尚氏時代の初期は、沖縄の南方・東南ア
ジア諸国との貿易が最高に達した時代であった。当時、東南アジアでもっとも栄えていたの
が、シャム(タイ)のアユタヤ王朝であった。シャムは、南方・東南アジア地域で琉球にとって最
大の貿易相手国であった。シャムには、1420(応永27)年、使者を遣わして交通を開始し、それ以
降150年間も貿易を続けた。琉球王府の記録によると、1419年から1570年までの約150年間
に、62隻の琉球船が派遣された。実際の数はこれをはるかに上回るものと思われ、年に一隻
は派遣していたのではないかと考えられる(35)。

 琉球からシャムヘの輸出品は、琉球産の硫黄、中国産の絹織物・磁器類・日本産の刀剣・扇な
どであった。シャムからは、朱色の染料として価値の高い蘇木や胡椒などの香辛料・高級織物・
南蛮酒類、それに象牙の加工品など南方産の珍しい品々を買い入れた。

 シャムとの交易が軌道にのると、琉球はさらに南下してマジャパヒト王国のバレンバン
(インドネシアのスマトラ島南東部の港湾都市)、ジャワにも船足をのばし、15世紀なかばには
東西交通の要衝であったマラッカ王国まで交易圏を拡大した。バレンバンとの貿易は、1421
(応永28)年、華僑頭目の使者を、沖縄からシャム経由で返還したことに動機づけられ、1440
年まで続いた。ジャワとは、1430(永享2)年に始まり、それ以降約150年間も貿易を続け
た。バレンバンへは1428年から1440年まで4隻、ジャワへは1430年から1442年まで6隻の
琉球船が派遣された。

 マラッカは15世紀になって繁栄し、東西交易の接点となった。マラッカはインド商人やア
ラビア商人なども頻繁におとずれ、東西のありとあらゆる産物が集積する地域であった。琉球
は、ここからも胡椒をはじめ、南方産の珍しい品物を仕入れた。沖縄とマラッカの交易は、歴
代宝案(1424年から1867年までの琉球本国の外交に関する文書を集めた記録)では1463年
(寛正4=尚徳3)からとなっている。
 マラッカへは、同年、呉実堅(ぐしきん)を遣わしており、その前から通行があったらしい(36)。マ
ラッカとはそれから1511年までの間に、前後18回にわたって往航している。マラッカは
1511年、ポルトガルに占領されたため、それ以後沖縄船は、マライのバタニや、ジャワのス
ンダやカラパに移って交易した。

 琉球貿易の特徴は、その形態が琉球商人によるものではなく公貿易であったということであ
る。琉球船は国王の派遣する官船であり、外交を前提とする遣船であり、航海技術要員を除く
乗組員は使節人員(役人)であり、商人は含まれていなかった(37)。

 琉球の東南アジア貿易は、「港市」のネットワークを基盤として展開された。港市とは、貿
易港を核として歴史的に発達した港湾都市のことである。マラッカ王国の形成がその典型であ
るが、港市を中核とした小国家が東南アジアの海域世界には数多く生まれた。

 琉球船は、東南アジア各地の港市から港市へ寄港しながら貿易をおこなった。その活動は華
僑の商業ネットワークを利用していたと考えられる。たいていの港市には華僑が定住しており、
琉球船にも福建系の久米村華僑が通事(中国語通訳)として乗っていたので、交渉事務はほと
んど中国語で用が足りたものと思われる。

 琉球から東南アジア方面への派遣船数を『歴代宝案』からみると、シャムが58隻ともっと
も多く、ついでマラッカ20隻、パタニ10隻、ジャワ6隻、パレンバン4隻、スマトラ3隻、スン
ダ2隻、安南1隻、この順で、合計104隻である。
 このように琉球から南方・東南アジアへの船は多かったが、南方・東南アジア諸国の船が琉球
にきたのは、シャム船の2,3回だけで、全くは一方交易であった。

 沖縄船は日本産の銅・刀剣や、中国産の生糸・絹織物・磁器などを転買し、南方・東南アジア
から染色の原料に用いられる蘇木や胡椒などの香辛料を輸入した。これらの輸入品を明への朝
貢品として再輸出されるとともに、日本や朝鮮へ転売され、仲介・中継貿易で莫大な利益をお
さめた。泡盛の製法もシャムから輸入された(39)。

5.琉球の大交易時代
 14世紀後半から16世紀半ばまで、琉球は、いわゆる大交易時代とよばれる時期であった。
14世紀後半、琉球は、海外へ積極的に出ていく動きが本格化する。それを可能にしたのは大
型船の保有であり、朝貢の便宜をはかるという名目で明から琉球に大型ジャンクが賜与された。
この海外貿易船を、「進貢船」とよんでいる。

 そのころ、中国では民間人の海外貿易は禁止されていた。また、すでに海外に居住する中国
人が故郷に帰ることも大幅に制限されていた。

 このような海禁により、本国での貿易を厳しく制限された中国商人の一部が、新たな活動拠点
を求めて海外各地へ移り住み、そのため中継貿易の拠点として琉球の地位が高まったのである。

中国から流入する大量の銅銭(洪武・永楽通宝など)は港市の貨幣経済を活性化させ、アジア
各地から舶載される珍しい商品が那覇の市場で取り引きされた。

 15-16世紀にかけて、琉球王国はアジアの貿易拠点としての地位を確立した。明や朝鮮と
の通交はもちろん、博多・対馬・堺・坊乃津などから多数の日本船が、胡椒や蘇木などの東南
アジア物産を買い求めるために琉球をおとずれた。
 博多は、琉球―日本―朝鮮を結ぶ東アジア貿易ルートの重要拠点であると同時に、瀬戸内
海をへて兵庫・畿内へ至る国内流通の結節点でもあった。琉球ルートの貿易品は博多を経由し
て日本市場に流通し、その一部は壱岐・対馬を経由して朝鮮半島へ転売された。

 そのころの琉球人の活動をポルトガル人であるトメ・ピレス「東方諸国記」によると以下の
ように記している(39)。

 「われわれの諸王国でミラノについて語るように、中国人やその他のすべての国民はレキオ
人について語る。彼らは正直な人間で、奴隷を買わないし、たとえ全世界とひきかえでも自分
たちの同胞を売ることはしない。彼らはそれについては死を賭ける。(中略)かれらは色の白
い人々で、シナ人よりも良い服装をしており、気位が高い。かれらはシナに渡航して、マラッ
カからシナヘ来た商品を持ち帰える。かれらはジャポン(日本)に赴く。それは七、11日の
航程のところにある島である。かれらはそこでこの島にある黄金と銅とを商品と交換して買い
入れる。レキオ人は自分の商品を自由に掛け売りする。そして、代金を受け取る際、もし人々
が彼らを欺いたとしたら、彼らは剣を手にして代金を取り立てる」。

 このレキオ人とは、もちろん琉球人のことである。日本が南方貿易を始めたのが16世紀後
半で、琉球は日本より100年以上も早く、東南アジア地域で交易活動を行っていたことになる。

 明国への琉球の入貢回数は171回で、2位のベトナムの89回、朝鮮30回、日本19回と比較
すると、断トツの1位である。琉球の大交易時代、中国に渡航した琉球人は延べ10万人(清
代をいれると20万人)、東南アジアヘの渡航者は延べ3万2,300人にも達するという。16世紀
の琉球の人口がほぼ10万人程度だったことを考えると、驚異的な数値といえる(40)。
 このような壮大な交易によって、レキオたちは東アジアの各地域や国々の文化を琉球にもた
らし、独自の王国文化を形成していったのである。

 琉球は、東アジア・東南アジア地域の中継貿易国として栄え、ヨーロッパ人にも、レキオ
またはゴーレス人として知られるようになった。琉球の"大交易時代"とよばれるゆえんであ
る。琉球はこの時期に王国としての体制をかため、東アジア社会の一員として認められたのである。

 では、なぜ小さな琉球王国が、東南アジアまでの大交易を行うことができたのであろうか。
 第1は、琉球の地理的な有利性である。琉球は、地理的に中国、日本、東南アジアのほぼ中
心にあり、航海術の進歩もあり、海洋貿易では地理的に優位な場所にある。

 第2は、琉球には産物が少なく、海外交易を進めなければ、国を発展させることができな
かったことがある。

 第3は、明の中国商人への海禁政策である。
明は、冊封を受け入れた国とのみ朝貢貿易を行い、中国商人が海外で自由に交易することを厳
しく禁じていた。そのため、14世紀後半から16世紀にかけて、マラッカ海峡以東のアジア
海域で南北の流通を担う中国商人の活動が鈍ってしまい、琉球商船が活躍する好機がめぐって
きたのである。

 第4は、中国の明と琉球との朝貢貿易体制である。琉球交易において、東アジア世界に君臨
していた中国皇帝の権威が後ろ盾になったということである。

 第5は、琉球から海外へ積極的に出ていく動きが本格化する14世紀後半、それを可能にし
たのは大型船の保有であり、朝貢の便宜をはかるという名目で明から琉球に大型ジャンクが賜
与されたことである。

6.琉球貿易の衰退
 琉球の大交易時代も、長くは続かなかった。 琉球王国の最盛期は、16世紀前半であった。
16世紀ごろからヨーロッパ諸国の地理上の発見でポルトガル、スペインなどが東南アジアへ
の進出してきた。1420年から1620年にかけて、ヨーロッパ人による海外進出が活発に展開され
たが、その200年間の歴史は一般に「大航海時代」と呼ばれる。この時代には、スペイン、ポ
ルトガルをはじめヨーロッパ勢力のアジア進出によって、遠洋航海ルートが開拓され、はるか
海を越えて大規模な人の移動が可能となり、貿易と物産の交流が地球的規模でおこなわれるよ
うになった。アメリカの歴史家ボイス・ペンローズの言によれば、「大航海時代」とは、地球と
いう広大なキャンバスに描かれた壮大な叙事詩であるという(41)

 日本も、16世紀の後半ごろから堺商人などが活躍し、活発に交易活動を行うようになった。
 中国でも海禁政策が緩み、中国商人が盛んに商業活動を繰り広げることになった。また、中
国の国力が衰えたことで、琉球へのジャンク船の支給も停止された。さらに、中国人を主体と
した倭寇の活動が激化した。

 琉球王国は、豊臣秀吉や薩摩の島津氏が服属を求めたため動揺がはじまり、1609(慶長14)
年に薩摩藩に征服され、王国の体制のまま日本に服属するとになった。

 以上のような要因などがあり、琉球の中継貿易の役割は減退していった。琉球は、中国への
渡航を除いて、1570年のシャムへの使船を最後に、東アジア・東南アジアの表舞台から消え
ていった。16世紀の後半になると、ポルトガル・スペインのアジア進出と日本の交易活動の発展
(特に堺商人の活躍)、および中国沿岸に出没する倭冠(海賊)に脅かされ、琉球の中継貿易は
急速に衰えていったのである。



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転載元: 海洋文化交流/貿易振興

[転載]琉球は土地の生産力が乏しく、貿易はもっぱら日本や南海諸国などの産物を仲介することをその根幹としていた

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琉球貿易

   

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琉球貿易(りゅうきゅうぼうえき)とは、琉球王国日本・中国()・朝鮮東南アジア(南海諸国)の間で行われた貿易のこと[1]
琉球は土地の生産力が乏しく、貿易はもっぱら日本や南海諸国などの産物を仲介することをその根幹としていた[2]


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14世紀に入ると、琉球本島(現在の沖縄島)には北山中山南山と呼ばれる政治勢力が成立するが、その形成を促したのも日本や中国などとの対外貿易の展開に伴う在地首長層の成長があったと考えられている。北山は運天、中山は那覇、南山は馬天という有力な貿易港を有していた[1]1372年、建国間もない明の洪武帝の招きに応じて、琉球の三国が相次いで朝貢を行い、冊封を受けた。また、1414年には中山の尚巴志が日本の室町幕府に遣使を行った。この間に尚巴志が残り2国を滅ぼして琉球王国が成立した[2]

明への朝貢使による貿易は時期によって異なるものの、1年もしくは2年に1回、特によっては年に2回派遣を行っている[1]。日本に対しては2年もしくは3年に1度使者を派遣していたが、応仁の乱による日本国内の政情不安により次第に博多の商人の方から琉球を訪れるようになった[2]
日本や明に対する献上品の中には東南アジアなどの南海諸国で取れる蘇木や胡椒があるように、東南アジアにも使者を派遣していたと考えられており、特にマラッカ王国シャムがその対象であった。[1]


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明との交易においては皇帝への朝貢品として琉球で取れる硫黄、日本産の刀剣、東南アジア産の胡椒蘇木象牙などが進上され、これに対して明国皇帝からの頒賜品名目で多額の金品が与えられたほか、琉球の使臣・随伴者が持参した商品は明側が買い上げる形での私貿易が行われた。また、明から入手した銅銭はその需要が高い日本との貿易で用いられた[1]



16世紀に入ると、琉球の貿易に陰りが見え始める。原因としては後期倭寇の活発化、ポルトガル勢力のマラッカ占領などによって琉球船の活動が制約されたこと、そして、日本から琉球へ向かう海上航行権を巡って薩摩国島津氏の発言力が高まり、やがて貿易の独占を志向するようになったことによる。
島津氏と琉球の関係は琉球王国の成立時には成立したと考えられているが、1471年に室町幕府が島津氏に琉球への渡航船の取締を命じたことから、海上航行権の掌握に乗り出した[3]

ところが、島津氏の内紛が長きにわたって続き琉球への具体的な介入には至らなかった。長年の内紛が終息した島津氏が肝付氏らを破って南九州の支配権を回復する(1575年以降)と肝付氏から志布志・串間などの港湾を没収して直轄化し、種子島氏・禰寝氏・頴娃氏などこれまで独自に琉球との交易を行ってきた島津氏傘下の国人領主に対しても厳しい貿易統制を行って島津氏への貿易独占化を図った。

一方、琉球に対しても強硬な態度を取り、島津氏の渡航朱印状を帯びない船舶との交易の停止を要求すると、琉球側はこれを拒絶する(島津氏は以前から倭寇対策を名目に島津氏の渡航朱印状を持たない船との交易の停止を求めてはいたが、琉球側は曖昧な対応を取っており、島津氏側もこれを強制する術を持たなかったが、ここにきて強硬な対応に転じたのである[4])。

両者の関係は敵対関係に転じ、やがて1609年薩摩藩(島津氏)による琉球出兵に至る[1]。薩摩藩の出兵の背景には藩の財政難などに代表される領主的危機感の高揚にあった。実際、出兵直後においては琉球から奄美を奪って蔵入地にしたり琉球から租税の徴収を行ったりしている[1]


薩摩藩の琉球出兵の動きを知った明側は琉球の使節派遣を10年に1度に制約するなど頑なな態度を取っていたが、1634年には2年に1度に戻されている[1]。また、明に代わって中国本土を掌握した清も琉球国王に冊封を与え、福州琉球館の設置を許した[2]
同じころ、鎖国政策を取っていた江戸幕府は貿易の維持のために薩摩藩の琉球を介した貿易を容認する姿勢を示した。だが、それは琉球王国にとっては生糸薬種など日本(江戸幕府および薩摩藩)が必要とする品を確保・献上する義務を負う事になった。


17世紀中期に入ると明清交替に伴う混乱や清に抵抗する台湾鄭氏政権による妨害(琉球王国は清から冊封を受けていたため)、江戸幕府の貿易統制が間接的に琉球貿易にも適用される(貿易額の制限など)等によって琉球貿易は苦難の時代を迎える。
  だが、中国から日本へ生糸・薬種・砂糖をもたらし、日本から中国へは干鮑昆布などの俵物をもたらした琉球貿易は幕末期(19世紀中期)に至るまで東アジアの貿易では大きな役割を果たして長崎の会所貿易を脅かす程の存在感を持ち、その利益を掌握してきた薩摩藩の財政に対する貢献も大きかった。



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琉球王国の経済

中国への進貢船

琉球はに冊封されることで、倭寇の取締りを尻目に、海禁政策を行っていた中国とアジア諸国の間での東シナ海中継貿易の中心の1つを担うようになり、経済基盤をつくり上げた。貿易範囲は日本の他、主に中国朝鮮ベトナムタイなど東南アジア諸国であった。

しかし16世紀に入り、1567年、明が倭寇対策として海禁の緩和(中国人とアジア諸国との直接交易を認める。ただし日本のみ除外。)を行ったことで大打撃を受ける。大航海時代を迎えたヨーロッパ諸国が東南アジアに貿易拠点を築き東シナ海にも進出すると、ポルトガルマラッカを抑えることで東南アジアの市場を失い、日本との中継貿易もマカオのポルトガル人が手がけるようになるなど、ヨーロッパ人が東アジア諸国と直接貿易をするようになった。

更に戦国時代に戦費調達のため鉱山開発が進んだ日本が、安土桃山時代から江戸時代初頭にかけて、豊富なを持って東南アジア領域に進出し、多数の日本人町を形成するほど貿易の中心となり、琉球の中継貿易は衰退した。ただし、明が朱印船を受け入れなかったため、琉球の対明中継貿易の地位は残り、命脈を保った。

その後、東アジア諸国の鎖国政策によって国際貿易は縮小するが、薩摩藩の付庸国となることで日本との、朝貢貿易によって中国との貿易ルートを得た琉球が安定した中継貿易の地位を確立した。
19世紀に入ると、アヘン戦争に敗北したが海禁政策を弱め、日本も開国してヨーロッパと直接貿易を再開した。これにより、香港日本の開港5港などに貿易の中心は移り、琉球の東シナ海での中継貿易の地位はほぼ失われてしまう。結果、中継貿易を支えた琉球の日清両属体制は意義を失い、琉球処分で経済的にも政治的にも日本に完全に組み込まれた。
一般民衆による土地の私有が認められておらず、農業生産性も低く、税金も極めて高かったため、民衆は貧しい生活を強いられていた。

転載元: 環境・歴史・観光・防災・家族を想う、さすらいカメラマン

[転載]15世紀の東アジア1 明の海禁策と琉球王国の東南アジア貿易 『歴代宝案』の分析

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15世紀の東アジア1 明の海禁策と琉球王国の東南アジア貿易 『歴代宝案』の分析

『歴代宝案』は450年あまりの資料の集積であり、明の永楽22年(1424)から清の同治6年(1867)をカバーしているという。案というのは書類とか,公文書のことだという。現在、戦争で消失したものを台湾帝国大学などに残っていた写しを照らし合わせて復刻作業中だという。古流球における第一級の史料だといえる。

「歴代宝案」の歴史的意義と沖縄の将来  高瀬恭子 氏
http://homepage3.nifty.com/okinawakyoukai/kennkyuukai/121kai/121kai-1.htm
によると、
『 このように琉球が東南アジアに出ていったのには,明の海禁策が大いに関係があります。
 海禁とは中国人の海外渡航と海外商船の来航を一切禁止するもので,海外諸国王の派遣する朝貢船のみが許可されました。明が海禁策をとったのは,明初に倭寇や中国海寇の活動が活発で,特に元末に朱元璋と覇を競った群雄の残党が海島に拠っていたことが直接的な原因ですが,明朝の権威を諸外国に知らせると共に,私貿易を排除して朝貢貿易を確立しようとしたことにあります。
 しかし中国では,唐の中期以来宋でも元でも,商人たちは盛んに東南アジアに出ていきましたし,イスラム商人たちも広州や泉州などに盛んにやってきて,自由な貿易を行なっていましたので,海外の品物に対する需要が非常に多かったわけです。明初に洪武帝が各地に使いを出して朝貢を促した原因の一つでもあります。』

つまり、琉球人は、イスラム商人と同じような立場で自由貿易を行なった。明が海禁策をとったのは、元末の群雄が海島に割拠していたからだというのだ。これを統制するために、特定のグループに貿易を担当させたのであろう。福州には琉球館があり、ここを拠点としたようだ。

『福建布政司ですが,明代には地方は13の省に分かたれて,各省に布政司が置かれ,それが地方行政機関でした。そして福建は琉球国が入貢していく場合の窓口だったので,福建布政司が登場するわけです。』

『そして琉球国の朝貢は,中国が最も必要とした香木や香辛料,薬種などの東南アジア産品の入手に大きい役割を果たしたと思われます。明もまた琉球国にそれを期待したのではないかと考えられます。というのは『歴代宝案』を見ますと,明が船を琉球国に与えたり,壊れた場合福建で修理をしてくれる,そういう事例がたくさんあるからです。
 それからびん人三十六姓の渡来があります。海禁が布かれて海外渡航が禁止されているにもかかわらず,たくさんの渡来人があった。琉球国の歴史書は,びん人三十六姓の撥与つまり与えられたと書いております。中国側には公式に許して与えたという記録はございませんけれども,渡って来られるだけの理由があっただろうと考えられます。』
なお、久米村の人たちがビン南人であって、海洋文化の民であることは強調しておきたい。漢文は書けるが、口語ではビン南語をしゃべっていたはずであり、媽祖(まそ)の女神を祭っていた。東南アジアにネットワークがあるのは、現在も福建人(ビン南人)である。

ここで、6章から東南アジアとの交易についてみてみよう。
『 琉球国は貢物や附搭貨として,東南アジアや日本との交流がなければ,持っていけないような品々を持っていっていますが,『歴代宝案』にはまさしく東南アジアとの交流を示す文書が含まれています。ではどのような国々の名前が出てくるかを次に見てみます。
 暹羅国,満刺加国,爪哇国,大泥国,蘇門答刺国,旧港,巡達国,安南の8つです。これらの国の中には国家と呼ぶより,港市或いは港市国家と呼ぶのがふさわしいものもありますが,『歴代宝案』では国としていますので私もそのように呼んでまいります。
 資料5の地図(省略)で確認していきたいと思います。地図中に太い線がありますが,これは明代に朝貢を促す目的もあって,鄭和が海外遠征をした時の航路です。北のほうから見ていきますが,当時のベトナムは黎朝の大越国です。
 安南というのは中国が伝統的にベトナムのことを呼んだ名称です。それから暹羅はアユタヤ朝のシャム,現在のタイです。マレー半島中ほどに太泥『歴代宝案』では大泥または仏大泥と書かれているパタニです。それから満刺加,マラッカがあります。スマトラ島の北のほうに蘇門答刺,サムドラがあって,南のほうに旧港,パレンバンがあります。
 ジャワ島の爪哇,ジャワはマジャパヒト朝の中心地です。巡達,スンダはこの地図にありませんが,バタヴィア,現在のジャカルタのあたりです。これらの漢字表記は大体現地音を摸したものですが,旧港だけは意味による表記です。
 これらの国と琉球国との間の文書は1425年の暹羅宛から,1570年の暹羅宛まで,ほぼ150年間に100通ほどあります。そのなかで一番多いのが暹羅で,半分近くにのぼっています。』

さて、日本との交易については、禅僧が関わっていたことが分かる。
『 琉球国は日本とも盛んに交流しているのですが,『歴代宝案』には出てまいりません。外交の担当者が違うからです。
 久米村の人たちは漢文,中国語を媒介として中国や朝鮮,東南アジアとの交流の担い手となりましたが,日本との外交の担当者は主に禅僧でした。室町幕府とも交渉があり,1467年に応仁の乱が起る前には,琉球国の使者は3,4年に1回は京都まで参りました。そこで使われた文書は残念なことに残っておりません。
 しかし,足利将軍が琉球国に宛てた文書の写しが4通残っています。それは漢字まじりの仮名書きで,宛名も琉球国中山王ではなく「りうきう国のよのぬしへ」と書かれています。琉球国と日本との外交は『歴代宝案』とは違う形態で行われていたわけです。なお,応仁の乱で瀬戸内航路が安全を欠くようになって以後は,堺の商人,ついでは博多の商人が琉球へ来航しての交易が中心になります。』
このように、堺の商人、博多の商人が中心となったのは応仁の乱以降のようである。

李氏朝鮮との交流については、8章で触れている。
『 歴代宝案には朝鮮との間の文書が19あります。しかし,琉球国人が直接朝鮮に到った回数は比較的少なく,日本の僧侶や商人などが琉坪国王使をつとめる場合が多く,この方面への通交は,琉球に来航する日本船にゆだねる傾向がみられます。明末の文書には,北京で琉球国の朝貢使節から朝鮮国の朝貢使節に渡されたもの,同様に逆のルートで琉球国使節に渡されたものがあります。』
これは、日本の僧侶や商人が琉球王国の使者となったり、使者を一人乗せて交易することがあったということだ。

目からウロコの琉球・沖縄史 倭寇は琉球船を襲わなかった?(1)
http://okinawa-rekishi.cocolog-nifty.com/tora/2009/02/post-d0ab.html
にも、このことが書かれている。

つまり、このころから日本は琉球王国をうまく使っていたのではないか。同じように、中国は福建人(ビン南人)やイスラム商人をうまく使っていたといえよう。

琉球王国が中継貿易で繁栄したのは150年間ほどのようである。明が海禁策を取りやめるのが1567年だという。
『 琉球国の東南アジア向け文書の最後のものは1570年の暹羅宛と申しましたが,これ以降,琉球国の遣船はなかったと思われます。なぜなら,明の海禁策が1567年に廃止され,中国から海商が続々と東南アジアに出ていくことになったからです。』
また、マラッカ、マカオの占領、秀吉、家康の体制が関係する。とすると、島津の侵攻だけが理由ではなかったのである。

『ポルトガルはマラッカを占領して後,1517年にはマカオにやってきます。日本にも1543年にはやってきます。スペインもマニラに拠点を置きます。ちょっと時代は下りますけれども,秀吉が1592年に海外渡航を許可する。やがて家康も朱印船貿易を推進する。オランダがジャワに進出する。
 そうした情勢のなかで,琉球国が拠って立つ中継貿易の基盤は失われ,経済的な衰退が訪れます。』

転載元: 飛耳長目 国際紛争の心理

[転載]タイの世界遺産・古都アユタヤ(2)

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前にも書きましたが、アユタヤ歴史公園はチャオプラヤ川とパーサック川、
ロップリー川に囲まれた中洲の中にアユタヤ王朝が建設した遺構がビルマ軍
に破壊はされましたが、世界遺産に登録されるべく残されています。


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      アユタヤ王朝・創生から消滅まで

◆◆アユタヤ王朝創世記(14世紀後半)◆◆
アユタヤ王朝初代のウートン王はタイ中部のアユタヤがスコータイ王朝の領
土では無かった事からこの地アユタヤを領土とし都を開き、勢力を拡大して
いった。14世紀末には、アユタヤ王朝は東南アジア最大の勢力と見なされ
るが、その当時、勢力が衰えてきたクメールの都アンコールを攻め落として
アユタヤ王国の勢力下に加えた。


◆◆15世紀◆◆
アユタヤ王朝はクメールの完全なる掌握はできなかった。15世紀半ばまで
存続したスコータイ王朝を併合してスコータイ王朝は1438年に消滅。
マレー半島南部にあるマラッカ王国はイスラム教に改宗して独立を宣言し
スコータイ王朝はマレー半島南部(現マレーシア)を失う。


◆◆16世紀◆◆
1511年にマラッカを占領したポルトガルから外交使節団が到来。これが
タイの歴史上で最初の欧米列強との接触と言われる。5年後にポルトガル
の使節がアユタヤに渡り正式な通商条約を締結した。日本人のアユタヤ
入植もあったようだがそれは琉球王国がアユタヤで東南アジア産品を調達
していたようですが、それは1570年に途切れた模様。
ビルマからは覇権を争い、執拗な攻撃を受けていて、遂に1569年にビルマ
の軍門に下るが、1590年に再び独立し、1600年頃にはビルマに占領され
た以前のアユタヤに復興した。


◆◆17世紀◆◆
日本人勢力の拡大は徳川幕府の天下統一で戦が無くなり、それらの余った
浪人などがアユタヤなどの海外に働きに出たようです。一時は中国を凌ぐ
勢いの日本貿易だったのですが、1630年に日本の勢力拡大を恐れた時の
王がアユタヤ日本人町を焼き討ち。1635年に朱印船貿易が廃止、衰退し
た。17世紀後半には欧米列強の台頭によるキリスト教の拡大で時の王は
白人をアユタヤから追放し鎖国政策を取った。


◆◆18世紀◆◆
泰麺戦争などに敗れ、遂にはビルマにアユタヤの街を徹底的に破壊されて
1767年にアユタヤ王国は滅亡する。その後、新たに王になったタークシン
はアユタヤの再興は諦めてトンブリーに遷都する(トンブリー王朝)





以上、簡単にアユタヤ王朝(1351-1767年)の約400年の歴史を書いて
みました。日本の歴史と比べれば鎌倉幕府滅亡が1333年ですから、それ
以後の南北朝時代中盤頃からアユタヤ王朝が始まりました。




それが時を経て、紆余曲折はあったものの400年の長きに渡り、シャム
及びその周辺国を支配してきました。アユタヤ王国が消滅したのが江戸時
代の第10代将軍・徳川家治(在位1760-1786)の時でした。



以下次号


転載元: タイの世界遺産巡り

[転載]帆船時代の東西交易とマラッカ海峡、マラッカ王国の繁栄とヨーロッパ人の進出

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1396年
マラッカ王国成立
スマトラ島(現インドネシア)パレンバンの王族「パラメスワラ王子」により「マラッカ王国」が宣言された。

1414年
国王がイスラム教を受け入れる
 パメスワラ国王は、イスラム教を享受し「ラジャ・イスカンダル・シャー国王」と改名する

1511年
「マラッカ王国」陥落。ポルトガルの植民地となる
時は大航海時代。マラッカは東西交易に欠かせない重要な海洋拠点であった。従来のアラブ商人経由の香辛料取引を直接交易による利益を独占しようとしたポルトガル。国王の命を受けた「Alfonso D' Albuquerque;アルフォン・デ・アルバカーキ副王」が16隻の大艦隊を率いてマラッカ王国を10日間包囲し攻撃、占領。現在も残るサンチャゴ砦(ファモサ)と5階建ての塔を建設した

帆船時代の東西交易とマラッカ海峡

宋代のジャンク船
帆船の時代にあっては、古代エジプト古代ローマアラビアアフリカトルコペルシャ、インドなど、海峡西方の諸国からの物資を運んできた貿易船は、現在のマレーシア西海岸のクダの港やムラカ(マラッカ)を利用した。古代にあっては、夏季6月-11月)に吹くモンスーン貿易風)に乗って西からの貿易船がクダなどに着き、冬季12月-3月)に反対方向の風を用いて帰航するというケースが一般的であった。
6世紀ころ著名な港湾として繁栄していたクダには、はしけ、人足、ゾウ税関などが整備されており、ここに着いた荷物は一旦陸揚げされて、マレー半島東海岸のクランタン州周辺まで陸上輸送され、中国などの東方へ輸出する場合はさらにクランタンなどの港から荷物を積み出していた。
取引される各地の特産物としては、
などがあり、マラッカ海峡は、中国を起源として南シナ海や東シナ海で用いられたジャンク船とインド洋一帯で広く用いられた1本マストのダウ船とがともに行き交う海域であった[11]
12世紀から13世紀にかけて、東南アジアでは中国とインド・西アジア間の中継貿易のための港市が発達する。これは、モンスーン(季節風)の関係で、インド洋海域と東アジア地域との間を往復するには2年の歳月を必要としたが、東南アジアの港市との間を往復するだけであれば、その半分以下の時間しか掛からなかったからである。



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マラッカ王国の繁栄とヨーロッパ人の進出

復元されたマラッカ王宮
ムラカ(マラッカ)のポルトガル人の要塞サンティアゴ要塞
15世紀における海峡最大の貿易港はムラカ(マラッカ)であり、中継貿易で繁栄した港市国家マラッカ王国の主要港としてにぎわった[3]。ムラカの港務長官は4人おり、第一長官はインド西海岸のグジャラート州、第二長官は南インド、ベンガル州およびビルマ(ミャンマー)、第三長官は東南アジアの島嶼部、第四長官は中国(明)、琉球王国、チャンパーをそれぞれ担当地域とした。ムラカは、商人船員通訳、港湾労働者、人や物流を管理する吏員、船乗りや商人の相手をする遊女などでにぎわった[11]


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16世紀初頭、ポルトガル人トメ・ピレス英語版の『東方諸国記ポルトガル語版』によれば、ムラカの港市には、カイロメッカアデンのムスリム、アビシニア人(エチオピア人)、キルワマリンディなどアフリカ大陸東岸の人びと、ペルシャ湾沿岸のホルムズの人、ペルシャ人、ルーム人(ギリシャ人)などを列挙したうえで、「62の国からの商人が集まり、84もの言葉が話されている」と記している[11]。こうした繁栄を知ったポルトガル人は1511年、16隻の軍艦でこの町を攻撃、占領してポルトガル海上帝国の主要拠点のひとつとした。1498年ヴァスコ・ダ・ガマインド航路を「発見」してから15年足らずのことであった[12]






「マラッカ古図」(1726年
その後、マラッカ海峡の両岸は、ポルトガルとスマトラ島北端部のアチェ王国、マレー半島南部とリアウ諸島に基盤を置くジョホール王国の三者が合従連衡を繰り返してマラッカ海峡の交易の利を独占しようとし(「三角戦争」)、17世紀前半にはアチェ王国が優位に立ってアチェ全盛時代を築いたが、最終的には、新規参入者であったオランダとマラッカ王国の末裔であったジョホール王国とが連合し、1641年にポルトガル勢力を駆逐し、ムラカはオランダの占領するところとなった[13]。しかし、ムラカ(マラッカ)は貿易港としては衰退し、17世紀後半には海上民を統制し。オランダ・アチェとも良好な関係を構築したジョホール王国がジャンビ王国と抗争しながらも全盛期をむかえ、東西交易の中継として繁栄した。

海峡地帯にはマレー人はじめスマトラ内陸部ミナンカバウ人スラウェシ島南部のブギス人など東南アジア各地の諸民族、中国人インド人アラビア人ペルシア人ヨーロッパ人日本人など数多くの人種民族が住んだ[3][注釈 4]。ムラカはその後、19世紀初頭のナポレオン戦争の際にはイギリスによって占領された。ムラカはいったんオランダに返還されたが、1824年、イギリスはオランダとのあいだに英蘭協約を結んで、マレー半島側をイギリスの勢力圏、スマトラ島側をオランダの勢力圏とした。
1869年スエズ運河の開通後は、それまでスマトラ島・ジャワ島間のスンダ海峡を利用していた船舶も、その多くがマラッカ海峡を利用するようになり、いっそう重要性を増した[3]。また、特にマレー半島側の鉱業・農業における大規模開発を促し、ペナン、シンガポールの両港の発展がもたらされた[4]
その一方で、オランダ東インド政庁は1871年スマトラ条約によってイギリスの干渉を排除し、1873年、海峡の安全確保を名目にアチェ王国の保護領化を企図して王国への侵攻を開始した[14]。これがアチェ戦争英語版であるが、アチェの人々の頑強な抵抗により、オランダ軍がスマトラ全土を制圧したのは1912年を待たなければならなかった。これにより現在のインドネシア全域がオランダの植民地となった[14]。いっぽう、現在のマレーシアに相当する英領マレー連合州が成立したのは1896年のことである。

第二次世界大戦時にイギリス軍が日本軍に放逐され、終戦に至るまで日本軍の占領下におかれた。終戦後にイギリスやオランダの国力が低下したことを受け、インドネシアはオランダ領、マレー連合州はマラヤ連合(のちマレーシア連邦、現在のマレーシア)としてイギリス領からそれぞれ独立した[注釈 5]。海峡沿岸国の領海は3海里から12海里に拡大され、かつて公海として自由な航行に供されてきた海峡も現在は領海化されている[3]
マラッカ海峡は、1994年に発効した国連海洋法条約における「国際海峡」に該当するとされており[15][注釈 6]、外国の艦船や航空機は、国際法上の取り決めと沿岸国の法令にしたがうことを条件として、海峡通過のための通航権が認められ、沿岸諸国は現在、航路帯および分離通航帯を設定し、通航船舶にその遵守を求めている[3]



1941年12月、日本軍はマレー半島への侵攻を開始しました。それと同時に当時ペナンに住んでいた日本人の人々はイギリス軍に拘束されました。しかし、度重なる空襲と予想以上の速さで進行を見せる日本軍に対し、イギリス軍は16日までにペナンから全軍を撤退させます。
「日本軍の急速な進撃を阻止するためにペナン島の放棄もやむをえなかった」(p.133)
これはイギリス軍パーシバル中将の言葉です。ジョージタウンが受けた空襲は市の機能をストップさせ、警官もほとんどが逃亡。労働力が皆無となる大きな損害を生み住民にもイギリス軍にも大きな心理的不安を与えていたのです。
こうして日本人たちはインド系住民たちの手によってイギリス軍撤退を知らされ、開放されれました。そして半島側の日本軍のもとへこの時開放された日本人のうち二人がペナン島を脱出しイギリス軍撤退を知らせに来たのです。彼らのことは当時日本国内の新聞にも大きく取り上げられ、その勇気と行動を賞賛されました。
住民の知らせを受けた日本軍は急遽第五師団にペナン攻略を命じます。こうして19日に最初の一団がペナンに上陸。無血占領を果たします。


1941年 1942年
太平洋戦争戦時下において日本軍がマレーシアを占領する
12月8日 日本陸軍第25軍先遣兵団、マレー半島コタバルに上陸
12月10日 マレー沖海戦により英国東洋艦隊を撃破する
12月11日 日本陸軍航空隊、ペナン島を攻撃
12月13日 アロースターを占領
12月19日 半島北部の英軍飛行場の全てを制圧・占領
12月31日 佗美支隊、クアンタンを占領
1月11日 第5師団、クアラルンプールを占領
1月31日 第25軍、マレー半島南端のジョホールバルを占領
3月12日 近衛師団、北部スマトラを占領

転載元: マレーシアの環境、歴史、観光


[転載]八重山諸島の歴史

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歴史

復元された首里城
沖縄県の歴史年表



沖縄諸島先島諸島
旧石器時代先島
先史時代
貝塚時代


グスク時代
三山時代
北山中山南山



第一尚氏王統
第二尚氏王統

薩摩藩支配)

沖縄県

アメリカ合衆国による沖縄統治
沖縄県
主な出来事
関連項目
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近代以前


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 先史時代の先島諸島では縄文文化の影響は殆ど見られず、台湾との共通点が指摘される土器が多く見つかっている。
  約2500年前から無土器文化(料理には同様に無土器文化を持つポリネシアと同じく石焼を多く用いたと考えられている)に入るが、この時代もシャコガイ貝斧などがみられ、これもフィリピン方面との文化的関係が考えられている。

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  約800年前ごろからカムイヤキや鍋形土器など、本島さらには北方との関係がみられるようになる。記録としては、『続日本紀』に、714年(和銅7年)に「信覚」などの人々が来朝したと記されており、「信覚」は石垣島を指すといわれる。

14世紀から15世紀沖縄本島に興った琉球王国による海上交易の中継地として次第にその影響圏に置かれた。1500年石垣島の按司オヤケアカハチが反旗を翻すと、尚真王は征討軍を編成するが、宮古島の豪族・仲宗根豊見親が先鋒となって石垣島に上陸し、オヤケアカハチを討ち取った。

 これによって先島のほぼ全域が琉球王国の支配下に入ったが、与那国島では女首長サンアイイソバ(サカイイソバともいう)による独立状態がしばらく続いた。 1609年、徳川幕府の了解を得た薩摩藩島津氏による琉球王国に侵攻し、服属した琉球王を徴税代理人として年貢を徴収した。
 琉球王府は先島諸島に対して人頭税を導入した。


琉球王国は15世紀から16世紀に中継貿易で栄えたとされています。
しかし、ポルトガルが東南アジアに進出してきたり、明の海禁政策の緩和により、各国が直接貿易を行うようになると、琉球王国が中継貿易を行う必要はなくなります。
夏子陽という明の冊封使が書いた使琉球録によると、琉球王国は日本から胡椒、蘇木を購入している。
日本はシャム(現在のタイ)から購入していると書かれています。
つまり、琉球王国は日本の中継貿易国となっていたのです。



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近代

 
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  明治政府は、1872年(明治5年)、琉球王国を廃止して琉球藩を設置した。しかし、清はこの日本の政策に反発、琉球は古来中華帝国に服属していたものとして、琉球の領有権を主張した。日本は台湾先住民による琉球人殺害宮古島島民遭難事件の報復として1874年(明治7年)に台湾出兵を行なった。
 この事件は、1871年(明治4年)、首里王府に年貢を納めて帰途についた宮古、八重山の船4隻のうち宮古船の1隻が台湾近海で遭難し、漂着した69人のうち3人が溺死、山中をさまよった生存者のうち54名が台湾先住民によって殺害されたものである。





 1879年(明治12年)、明治政府は琉球藩を廃止し、沖縄県を設置(琉球処分)するが、との間に琉球の領有権問題が発生し、日本政府は日清修好条規への最恵国待遇条項の追加とひき替えに、沖縄本島を日本領とし八重山諸島宮古島を清領とする先島諸島割譲案(分島改約案)を提案した。
 清も一度は応じ仮調印したが、「清は八重山諸島と宮古島を望まず、琉球領としたうえで、清と冊封関係を維持したままの琉球王国を再興させる」という李鴻章の意向によって妥結にはいたらず、琉球帰属問題も棚上げ状態になった。琉球再興に動かない清の態度に抗議した脱清人名城春傍(林世功)の自害もこの時のことである。日清戦争の結果、旧琉球王国領の全域が日本領であることを清は事実上認めざるを得なくなった。



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 政府による近代化は本土や沖縄本島よりもかなり遅れ、人頭税を中心とした王国の制度は20世紀初頭まで温存された。また1937年まで日本標準時より1時間遅い西部標準時が適用されていた。





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www.zephyr.justhpbs.jp/yaeyama_history.html - キャッシュ
 【八重山歴史年表】
西暦中国暦和 暦内    容
-1000万年前南西諸島と中国大陸南部が陸続きとなり生物が移り住む
-100万年前活発な地殻変動で大陸と離れ八重山諸島の原形ができる
-3500年前土器の使用始まる(仲間第一貝塚)
714奈良大和朝廷との交流の記述あり(信覚:しがき=石垣) *1
1185鎌倉平家の落武者が石垣島を来島
1390
(1368~1644)
室町
(1336~1573)


安土・桃山

(1573~1603)
琉球王朝時代八重山が琉球(中山)王府の統治下となる
1437三味線、南洋の踊り伝来
1500オヤケ赤蜂の乱、中山軍に討伐鎮定される*2
1522与那国島が琉球王府の統治下となる(一説には1510年)*3
1524竹富島に蔵元創設する
1609江戸
(1603~1868)
薩摩の琉球攻略
1611薩摩による八重山検地
1614桃林寺、権現堂創建
1622キリスト教伝来
1628行政及び税制の改革 (行政区を宮良・石垣・大浜の三間切とする)
1634綿布の製法伝来
1637人頭税制度の創設 (琉球政府の課した最も過酷な租税制度)*4
1647八重山の人口、5,482人と記録にある
1648波照間島平田村の百姓男女4-50人ほどが南波照間へ欠落*5
1665甘藷、初めて八重山に伝来
1681
(1644~1912)
間引(赤子埋殺)の悪習始まる
1694石垣島にサツマイモ伝来
1718唐船、石垣島へ漂着
1730八重山島日記編集される
1732唐紙製紙法伝来
1749芭蕉布の製法伝来
1771明和大津波 (死者9,313人、八重山の人口1/3となる)*6
1819宮良殿内建立
1839疫病大流行
1843英国船サラマン号入港する
1852英国商船唐人を大量斬殺(唐人墓)*7
1872明治
(1868~1911)
5琉球王国、琉球藩となる
187912廃藩置県、沖縄県となる [琉球処分]*8
188013日本政府、宮古・八重山を清国へ割譲の条約調印
188215郵便局設置
188720マラリア調査始まる  サトウキビ栽培が本格的開始
189023貨幣通用の始まり
189427八重山養蚕業始まる
189528断髪騒動 (八重山高等小学校生徒、竹富島修学旅行先にて一斉に断髪さる)
189629郡制施行で尖閣諸島も含め八重山郡に編入
190336人頭税廃止される
190538宮古久松五勇士、バルチック艦隊状況を八重山に急報する
190841一郡一村の八重山村誕生
www.okinawainfo.net/yaima/yaima-rekishi.html - キャッシュ
沖縄の八重山地方(諸島)の歴史についてのページです。
yaeyamanow.nanpusya.com/history17.html - キャッシュ
石垣、大浜、宮良の三間切りとなった八重山に在番が置かれ、そして1638年に初めて 人頭税が導入された。人頭税は一定の年齢に達したら否応なく課税される税金で、沖縄 本島にはなく宮古と八重山に課された差別的な税金であった。 賦課の方法は村の規模  ...
detail.chiebukuro.yahoo.co.jp > ... > 歴史 > 日本史 - キャッシュ
沖縄内でも侵略の歴史が多々有りました。

①本島内での血で血を洗う抗争
 17世紀初頭、尚巴志による本島統一が行われ、第一尚氏による琉球王朝が出来上がりました。成立からほんの60年余り後、臣下の金丸がクーデターを起こし、第一尚氏は滅亡。
 第一尚氏の主だった血筋は殆ど虐殺されています。現代沖縄県で最も知名度の高い歴史人物である尚巴志の墓が、読谷村の草深い所に誰にも知られる事無くひっそりと存在するのはこの為です。

②本島王朝の他島国征服
 金丸は明国側にクーデターである事内密にする為に、尚氏を名乗り、第二尚氏がスタートします。
 元々各島々には各々の王が立つ本島王朝とは全く別国家でした。是を侵略し、現在知られる琉球王国版図が出来上がりますが、当然ながら、「本島王朝側は征服者」「島々国家は被征服者」との位置付けになります。現代でも本島と宮古・八重山の方言が全く通じない程に異なるのは、元々別国家であったからです。侵略の具体的歴史は割愛致します。

③本島王朝の島々への対応
 本島王朝の島々への税搾取は「人頭税」に代表される様に、苛烈を極めました。基本は「住民が死んでも良いから搾り取れるだけ搾り取れ」です。
 この表現を読まれて「住民が死んでしまったら税搾取が出来なくなるから、本当かな?」と思われると思います(笑)が、この話にはあるカラクリがあります。「島々住民が脱走や死亡で減少したら、本島住民を強制移住させればよい」と云う、信じられない政策です。本島内での出来事。「ある朝起きてみたら、自分の家を含む一定地区だけ紐で囲われていた。やがて役人がやってきて、紐内地区住人は八重山へ移住せよとの指示。拒否すれば投獄となり、住民は八重山へ移動。やがて八重山住民減少が来る」この繰り返しです。人権を無視したトンでもない政策です!
島々の本島税搾取から逃れる話を二つご紹介します。

 「南波照間島伝説」
 波照間島の南に天国の様な島が有る・・・との伝説です。勿論、実際には島は有りません。波照間島近隣の住人が苛烈な税搾取から逃れる為に船に乗って多数旅立った(恐らく、全員死亡)と云う、悲しい現実が、この伝説を生みました。

「鮫に助けられた男伝説」
海で遭難した男が鮫に助けられた伝説ですが、これも実態は異なります。税負担に耐えられなくなった男が島から逃亡するが、遭難し、役人に捕まる。役人側は自身の立場が悪くなる事を恐れて、鮫に助けられた男伝説をでっち上げ・・・これが現実です。

④日本による琉球王国侵略
  第二尚氏時代、日本は「明国との貿易中継国」として琉球王国を侵略します。
時代は、徳川家康時代。明国との貿易で利益を得たい家康は、何とか貿易出来ないか苦心します。明国に親子として頭を下げれば朝貢貿易は可能ですが、家康は頭を下げたくありません。
 そこで、中継地として琉球王国を選んだ訳です。ただ、明国も馬鹿では有りません(笑)から、日本の実質支配を把握。明国は琉球王国の朝貢可能回数を極端に減らす対策を行い、家康の意図は破綻します。後は、「徳川幕府への定期的納税」を条件に、薩摩側に琉球王国支配を委任。薩摩のひとり勝ちとなります。

⑤明治期の琉球処分に実態
 明治に入り、いよいよ琉球王国が滅亡します。
 この時、琉球王朝側役人は大いにうろたえ、清国に助けを求めます。ところが、一般琉球国平民は、いたって冷ややかな目でこの事態を見ており、「民衆蜂起」の様な大事件は殆ど起きませんでした。理由は②と③です。
 うろたえる王朝役人を尻目に琉球処分が成立したのは、王朝側の対応にも大きな責任があります。

ja.wikipedia.org/wiki/Category:八重山諸島の歴史 - キャッシュ
... 八重山諸島の歴史. 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』. 移動先: 案内、 検索. 八重山諸島の歴史に関するカテゴリ。 下位カテゴリ. このカテゴリには以下 の下位カテゴリのみが含まれています。 *. ▻ 石垣市の歴史(1サブカテゴリ、20 ページ) ...


dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/2012-01-29 - キャッシュ
オヤケアカハチとその勢力を殺いだ琉球王朝の第3代尚真王は、その後を宮古島の 仲宗根に委ね、先島諸島の経営を始めるが、2年後には王府の直接統治へと移行する。 琉球王朝の黄金期といわれる時代を迎え、奄美諸島から先島諸島まで ...
jimoto-b.com/7521 - キャッシュ
関東は朝晩の風が冷たくなり、そろそろ厚手のコートが着たくなる季節になりました。 マフラーやムートンブーツもよく見かけます。富士山のてっぺんも真っ白だし、冬がすぐ そこまで来ているのがはっきりわかります。 そんな折、沖縄県石垣市と ...
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やいま文庫シリーズ5. 台八重山地域の研究史や 文化状況にゆいてまとめた一冊. 30 年余、ふるさと八重山の地域史研究に携わってきた著者が、近代以降の内外の八重山研究や調査を概観。また、「東京・八重山文化研究会」「沖縄・八重山文化研究会」を 中心 ...




転載元: 友愛・平和のブログ

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南山舎出版物は当社オンラインショップ「やいま印」から直接ご注文頂けます。
また、お近くの書店でご注文の際には「地方小出版流通センター取扱品」とご注文下さい。ご注文から約2・3週間で入荷となります。
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八重山研究の歴史

http://jaima.net/modules/guide6/content/images/book/bunko05/00.gif
著者:三木 健(みき たけし)
仕様:B6判 ソフトカバー 278ページ
発行:南山舎
定価:2,030円(1,880円+税)
やいま文庫シリーズ5
台八重山地域の研究史や
文化状況にゆいてまとめた一冊
30年余、ふるさと八重山の地域史研究に携わってきた著者が、近代以降の内外の八重山研究や調査を概観。また、「東京・八重山文化研究会」「沖縄・八重山文化研究会」を中心に書いた「研究会覚書」や、各島々でのフィールドワークの成果「記録と保存」、「八重山の戦争への視座」などを収録。
http://jaima.net/modules/guide6/content/images/book/bunko05/01.jpghttp://jaima.net/modules/guide6/content/images/book/bunko05/02.jpghttp://jaima.net/modules/guide6/content/images/book/bunko05/03.jpg
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琉球各地域でも王府の手によらない私貿易が行われていたと推測されている。しかし、世界史が大航海時代に入り、スペインやポルトガルといった国々がアジアに進出するにつれその勢力におされる形で衰退していった。

こうした中で八重山の人々と西洋人との接触が起こるようになっていった。16世紀に入ると、「南蛮船」が八重山諸島に頻繁に姿を現すようになった。記録に残っているだけでも1522年頃に西表島租納、1622年に石垣島冨崎、1639年に波照間、1640年に西表、1659年と1692年に与那国、1697年に石垣島川平で船の漂着などで西洋人が島民と接触している。

その際、時には食料の援助が行われたり、キリスト教が伝授されたり、あるいは幼女が連れ去られたりといったことが起きた。西表島星立の祭り「シチ」では仮面の男「オホホ」が現れ、札束をばらまき奇声で村人に迫るが誰にも相手にされずに去っていくが、この「オホホ」は漂着した西洋人がモデルとされている。
17世紀後半には異国船に対処するため、八重山の各島に遠見台が設けられた。

コンテンツ

第一部 八重山研究史
はじめに―八重山研究の潮流
1.明治期―民情調査と黎明期の研究
・民情視察から研究へ――田代安定の旧慣調査
・南島研究の導火線――笹森儀助の『南島探験』
・「八重山考古学」の幕開け――鳥居龍蔵の川平仲間貝塚発掘調査
2.大正期―柳田の来島とその影響
・胎動する地元の研究――岩崎卓爾と喜舎場永じゅん
・研究の種をまく――伊波普の来島
・郷土教育の重視――比嘉重徳と宮良長包
・「海南小記」の旅――柳田国男の来島とその波紋
・初の八重山方言辞典――宮良當壮の言語研究
3.昭和戦前期―台湾と結ぶ南島研究
・「八重山郷土研究会」の発足
・「南方文化の探究」――河村只雄の視点
・台湾と結ぶ『南島』の発行――須藤利一と八重山
・戦時下の八重山で――二人の外国人研究者の来訪、吉田一等兵
4.米国統治期―「起源論争」と「早稲田編年」
・『八重山歴史』の編纂と地元識者の著作
・「起源論争」起こる――金関・宮良論争
・「早稲田編年」の誕生――早大八重山調査団
・相次ぐ団体、個人の調査
・外国人による八重山研究
5.本土復帰後の研究―「される側」から「する側」へ
・石垣、東京、那覇に研究会が発足
・始動した自治体の歴史編集事業
・広がる研究分野と若手研究者の輩出
・大学による調査研究とその成果
第二部 研究会と自治体の取り組み
1.研究会覚書
・十周年を迎えた「沖縄・八重山文化研究会」
・東京・八重山文化研究会発足のころ
・八重山文化研究会活動の成果――『八重山文化論集』第三号を読む――
2.自治体の取り組み
・二十年を迎えた石垣市史――その成果と課題――
・歴史ロマンへの誘い――石垣市史編集室編『石垣島・村むら探訪』――
・後藤総一郎氏と柳田国男研究――石垣市史市民講座によせて――
・竹富町史編集の現状と課題――町史編集室の発足によせて――
・与那国町史初の成果――『記録写真集・与那国』(町史別巻1)――
第三部 地域史の現場から
1.記録と保存
・危機に立つ波照間の文化遺産
・パナリ島―廃村への軌跡
・石垣島の古井戸探訪記
・密林に消えた島の近代史――西表炭坑が物語るもの――
・八重山におけるカツオ漁業の歴史
・人頭税廃止百年に思う
・残っていた宮良長包新婚生活の家
2.八重山の戦争への視座
・八重山の戦記――その検証と課題――
・八重山戦を知る二つの本
・駐屯兵が島の戦争に見たもの――吉田久一著『八重山戦日記』を読む――
・八重山戦を考える――戦時中の地元新聞記事を中心に――
・戦争マラリアが問うもの――辺境差別が告発する「近代日本」――
付録 八重山研究史略年表
・掲載論文初出一覧
・あとがき
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