中世の琉球交易
1. 中国との冊封関係による進貢貿易・朝貢貿易
いつの時代でも海は、人と人を結び付ける文化や経済の大動脈である。球王国の誕生と発展
は、船による外国との交易や政治・文化交流によるところが大きかった。
琉球史では、12世紀から14世紀後半までをグスク時代とよばれ、各地に海を見渡すことの
できる小高い丘に石垣をめぐらし、豪族の城であり、祭祀施設でもあるグスクが多く作られ
た(現在、今帰仁(なかじん)城跡、中城(なかずすく)城跡、勝連城跡、座喜味城跡などが
残っており、世界遺産となっている)。
この時期、沖縄において外国との交易が盛んに行われてい
たと考えられている。14世紀から16世紀になると、琉球は中国・朝鮮・東南アジア諸国・日
本との仲介・中継貿易が本格的に始まり、利益を上げた。
特に15世紀、琉球の統一王朝である第一尚氏時代から第二尚氏時代の初期にかけ
て、中国の明との間で外交において冊封(さくほう)関係を結び、進貢(しんこう)貿易・朝
貢(ちょうこう)貿易を中心とした活発な海外貿易を展開した。
1368年に成立した中国の明王朝は、諸外国に対して冊封・進貢政策をとった。冊封とは、
中国の明の皇帝がその権威において外国の王(ここでは琉球王ということになる)の地位を
認めることをいう。具体的には、冊封というのは、朝貢の礼に対し、その国王に「なんじを封(ほ
う)じて国王とする」という勅書を与えることである。
進貢・朝貢とは、冊封をうけた外国の王は文書・貢物を使者に持たせ中国の皇帝へ献
上し、皇帝への忠節、恭順を示す外交関係である。
冊封関係を結ぶことによって中国との正式な貿易が許された。これが進貢貿易・朝貢貿易
である。この冊封関係は、琉球のみならず、日本、朝鮮、東南アジアとシルクロード沿いのオアシ
ス国家や遊牧国家の一部諸国も存在した。
こうした従属関係により、中国皇帝を頂点とする前近代アジアにおける国際秩序・外交関係、すな
わち冊封関係づくりをめざしたのである。
進貢船は、通常、秋(旧暦8-11月)に行って、春(3-4月)に帰ってきた。明朝は、国ごとに
入域港を指定し、市航司(しはくし)とよばれる入関機関を置き、琉球は福建省の泉州が指定
港となった。福建省の泉州は、当時中国の重要な海外貿易の窓口であつた。
福建省は、伝統的に海外貿易が盛んな土地であり、東南アジア中
心に活躍していた多くの華僑の出身省であった。
また、明朝は、貢年・貢期(こうき)という制度を設けた。中国への渡航頻度を国ごとに指
定したもので、琉球は1年に1度(年によっては1年2貢)、安南やジャワは3年に1度(3
年1貢)、10年に1度(10年1貢)といったもので、自由に中国に出かけることはできなかった(21)。
琉球では、察度の子である中山王武寧(ぶねい)のとき(1404年)、初めて中国の冊封を受
けた。琉球は、中国とのこのような冊封関係により、1404年の中山王武寧から1866年の最
後の王尚泰(しょうたい)までの約460年間の間に、21回の中国からの冊封使を受け入れた。
冊封使とは、中国皇帝の命を受けて中国から海を越えて琉球に赴いた使者のことである。琉球
において王が死去し、後継者が新たに即位することになった場合、琉球から中国皇帝に対して
冊封の要請(請封という)が行われ、冊封使が琉球の新しい国王の即位式典に参加する。
正使や副使に率いられた冊封使一行は、総勢で4,500人程度の大規模なこともあったようで、
中国から海を越え、那覇港に着いた(22)。冊封使は、先代の国王の霊を慰める儀礼と、その後
継者たる新国王に封ずる儀礼(冊封)という、2つの重要なセレモニーを執行した。冊封使は、
中華帝国の伝統的な中国を中心とした国際秩序を目指す華夷(かい)思想にもともとづく冊封
体制を支える外交官としての役割を担っていたといえる(23)。
中国(明)との貿易は、1372年琉球の3山の一つ中山王の察度(さっと)の進貢・朝貢貿
易が始まった。察度王は、貿易のみならず、留学生の派遣、中国人帰化人の受け入れなどを
行った(24)。こうして琉球の中山と明との公式貿易が開始され、それ以降察度王は、毎年のよ
うに貢物を奉る進貢使を派遣した(25)。その後、中山王にならい、1380年に南山王、1380年に
北山王が明への進貢貿易を始めた。当時の中国は、臣下(家来)として貢物をもってくる国と
しか貿易を行わなかった。3山がほぼ時期を同じくして明に朝貢したのは、中国に明という大
国の権威を背景に勢力を張り、さらにそれを利用して貿易の利をおさえて、富強になるためで
あった。
その朝貢は中山が3山を統一したとする1429年(永享元年)までに、中山42回、南
山24回、北山11回に及んでいる。
三山の王をはじめ、統一王朝の尚巴志(しょうはし:1422-41年)以後の王たちも貢物を
もって中国との貿易にあたる進貢貿易を行った。
1372年の中山王察度以降約500年間、琉球は中国との進貢貿易が続いたのである。14世紀
後半、琉球から海外へ積極的に出ていく動きが本格化する。それを可能にしたのは大型船の保
有であり、朝貢の便宜をはかるという名目で明から琉球に大型ジャンクが賜与された。
すなわち、かなりの数の大型のジャンク船が無償で明から支給され、また、大船の操縦や航海などを
有する人材が琉球に送られた(26)。
民国は、日本にも入貢と倭寇の禁止を求めてきた。南北朝が統一された後、室町幕府の足利
義満が入貢に応じ、1401年、勘合貿易による正式な日中貿易をはじめ、倭寇の取締りを強化
した。
明帝国の史料『明史』外国伝によると、明代270年間アジア各国から行われた進貢回数は、
安南(ベトナム)が89回で2位、シャム(タイ)は73回で6位、朝鮮は30回で10位、マラッカ(マ
レーシア)は23回で12位、日本は19回で13位であるのに対し、琉球は171回で1位、断トツであ
る。2位安南の2倍に近い頻度である(27)。
琉球はアジア各国のなかで公式ルートを通じて最も頻繁に中国に通った実績があった(28)。その
結果として福州(初期は泉州)・那覇間に太い交流のパイプができ、この窓口をチャンネルにし
て中国商品が大量に琉球に流れ込んできた(29)。
2.琉球と中国の貿易品
沖縄から中国への輸出貿易品は、沖縄産の硫黄(いおう)、馬、砥石(といし)、貝殻、日本
産の刀剣や銅製品、東南アジア産の蘇木(染料となる木)、胡椒、象牙などである(30)。硫黄
は北方にある硫黄鳥島で産出するもので、その試掘と権利は、国王などが握っていた。
中国からの輸入貿易品は、陶磁器、絹織物、鉄器、銅器、漆器、書籍などである。馬は、野
生の馬ではなく、輸出用に飼育したようである。
その後、沖縄の海外貿易が活発になるにつれ、貿易品の種類もしだいに増えた。
3.仲介・中継貿易
琉球は、中国、日本、琉球などの品々を南方・東南アジア諸国に運び売った後に、南方・東南
アジアの品々を中国、日本、朝鮮に運び売るという、仲介・中継貿易を行った。当時の琉球(奄
美から先島諸島まで)の人口はせいぜい10万人程度であり、琉球にもたらされる商品のうち、
内部で消費されたのはごく一部にすぎなかった。
1458年につくられた「万国津梁(ばんこくしんりょう)の鐘」には、海外に雄飛して巨万
の富を築いた海洋王国の雄姿が以下のように刻まれている(31)。
「琉球国は南海の勝地にして、三韓(朝鮮)の秀を鐘(あつ)め、大明(中国)をもって輔
車(ほしゃ)をなし、日域(日本)をもって唇歯(しんし:輔車と唇歯はともに深い関係にあ
るという意味)となす。この二中間にありて湧出(ゆうしゅつ)する所の蓬莱島(ほうらいとう)なり。
舟楫(しゅうしゅう)をもって万国の津梁(しんりょう:かけ橋)となし、異産至宝(いさん
しほう:外国の産物やこの上ない宝物)は十方刹(国中)に充満せり。」
福州(初期は泉州)ルートをみると、大量の中国商品を仕入れ、それを琉球を経由して日本、
朝鮮などに運び売る、またはそれを南方・東南アジア諸国に運び売る。南方・東南アジアでは
シャム(現在のタイ)、マラッカ(マレーシア)、ジャワ(インドネシア)などが代表的な貿易地
であった。たとえば、中国の福州(初期は泉州)で商品を仕入れ、琉球を経由して、博多に
出かける。そこで商品を売って船を空っぽにし、博多で容易に入手できる日本の特産品、たとえ
ば貴金属(金、銀)や美術工芸品、日本刀などを仕入れて琉球に帰る。そして、また中国へ行
き、それらの日本と琉球の商品を売る。同じように、中国で商品を仕入れ、南方のマラッカに
行き、中国商品を売りさばいた後で、錫や象牙、香辛料などを仕入れて船を満載して帰り、中国
や日本に売る。仲介・中継貿易では、那覇と福州のあいだに太い交流のパイプが出現し、その
パイプを伝って莫大な中国商品が琉球にもたらされるようになった。
このように、中国商人に代わって中国商品をアジア各地に供給する、この役割を琉球が担う
ことになったのである。その結果として、琉球の仲介・中継貿易は、中国との進貢貿易が順調
に推移すればするほど他のアジア諸国との貿易取引もまた順調に推移する、という構造になっ
ていた(32)。
琉球の交易において重要な役割を果たしたのは、当時琉球にいた華人であった。福建省から
多数の中国人が琉球に移住し、居留地を形成した。那覇港に近いその居住地は、久米村であっ
た。久米村の中国人は、造船、船舶修理、航海術、中国語通訳、外交文書作成、商取引方法、
などの海外貿易においてなくてはならない存在であった。当時、南方・東南アジア各地の貿易
港は、すでに多数の中国人居住区が形成されており、彼らは居住する貿易港を拠点に活発な貿
易活動を展開していた。このような南方・東南アジアの中国人と琉球の中国人との、いわば中
国人ネットワークが、琉球の仲介・中継貿易の特徴であった。
琉球にとって、日本は重要な交易国であった。特産物の乏しい琉球は、中国への進貢品や交易
品の多くを日本から買い入れた。また、日本は中国や南方・東南アジアから仕入れた品物をさ
ばくための市場でもあった。琉球船は、九州の博多や近畿の兵庫・堺の港などをはじめ、関東
の六浦(むつうら)まで行っている。足利幕府は、琉球奉行を置き、第一尚氏王朝と、しばし
ば文書の交換をしている。
15世紀の後半になると室町幕府の権威が弱体化し、日本国内は戦国時代といわれる混乱し
た状況になった。海上では私貿易や海賊行為をおこなう、中国人を主体とした倭寇の活動が活
発となり、琉球船はしだいに日本から遠ざかっていった。かわりに、堺・博多・坊津などの日
本商船が琉球にやって来て貿易をするようになった。特に、堺商人が、単独で琉球貿易に進
出するようになった。そのため、琉球船の交易は、それ以降九州に限定され、博多と坊ノ津が
その中心となっていった(33)。
琉球から日本への輸出品は、中国産の生糸・絹織物、南方・東南アジア産の皮革、香料・薬
種などで、日本からは日本刀、漆、扇、漆器、屏風、銅などを輸入した。琉球から日本へ貿易
のために渡航することを、ヤマト旅と称した。
ヤマト旅には、室町幕府に使節を送り交易する形態と、堺・博多などの民間商人と取引をする
方法とがあった。琉球からもたらされた品々は、上流階級のあいだで重宝がられたといわれ、幕
府も琉球貿易を奨励した(34)。
4.南方・東南アジアとの交易
13世紀ごろから、琉球船は南方・東南アジア方面、シャム王国(現在のタイ)やマラッカ
(マレーシア)までおよんだ。琉球船は、そのほかに安南(ヴェトナム)、スマトラ、ジャワ(イ
ンドネシア)などにも交易し、那覇には諸国の船が集まった。
15世紀から16世紀ごろの第1尚氏時代と次の第二尚氏時代の初期は、沖縄の南方・東南ア
ジア諸国との貿易が最高に達した時代であった。当時、東南アジアでもっとも栄えていたの
が、シャム(タイ)のアユタヤ王朝であった。シャムは、南方・東南アジア地域で琉球にとって最
大の貿易相手国であった。シャムには、1420(応永27)年、使者を遣わして交通を開始し、それ以
降150年間も貿易を続けた。琉球王府の記録によると、1419年から1570年までの約150年間
に、62隻の琉球船が派遣された。実際の数はこれをはるかに上回るものと思われ、年に一隻
は派遣していたのではないかと考えられる(35)。
琉球からシャムヘの輸出品は、琉球産の硫黄、中国産の絹織物・磁器類・日本産の刀剣・扇な
どであった。シャムからは、朱色の染料として価値の高い蘇木や胡椒などの香辛料・高級織物・
南蛮酒類、それに象牙の加工品など南方産の珍しい品々を買い入れた。
シャムとの交易が軌道にのると、琉球はさらに南下してマジャパヒト王国のバレンバン
(インドネシアのスマトラ島南東部の港湾都市)、ジャワにも船足をのばし、15世紀なかばには
東西交通の要衝であったマラッカ王国まで交易圏を拡大した。バレンバンとの貿易は、1421
(応永28)年、華僑頭目の使者を、沖縄からシャム経由で返還したことに動機づけられ、1440
年まで続いた。ジャワとは、1430(永享2)年に始まり、それ以降約150年間も貿易を続け
た。バレンバンへは1428年から1440年まで4隻、ジャワへは1430年から1442年まで6隻の
琉球船が派遣された。
マラッカは15世紀になって繁栄し、東西交易の接点となった。マラッカはインド商人やア
ラビア商人なども頻繁におとずれ、東西のありとあらゆる産物が集積する地域であった。琉球
は、ここからも胡椒をはじめ、南方産の珍しい品物を仕入れた。沖縄とマラッカの交易は、歴
代宝案(1424年から1867年までの琉球本国の外交に関する文書を集めた記録)では1463年
(寛正4=尚徳3)からとなっている。
マラッカへは、同年、呉実堅(ぐしきん)を遣わしており、その前から通行があったらしい(36)。マ
ラッカとはそれから1511年までの間に、前後18回にわたって往航している。マラッカは
1511年、ポルトガルに占領されたため、それ以後沖縄船は、マライのバタニや、ジャワのス
ンダやカラパに移って交易した。
琉球貿易の特徴は、その形態が琉球商人によるものではなく公貿易であったということであ
る。琉球船は国王の派遣する官船であり、外交を前提とする遣船であり、航海技術要員を除く
乗組員は使節人員(役人)であり、商人は含まれていなかった(37)。
琉球の東南アジア貿易は、「港市」のネットワークを基盤として展開された。港市とは、貿
易港を核として歴史的に発達した港湾都市のことである。マラッカ王国の形成がその典型であ
るが、港市を中核とした小国家が東南アジアの海域世界には数多く生まれた。
琉球船は、東南アジア各地の港市から港市へ寄港しながら貿易をおこなった。その活動は華
僑の商業ネットワークを利用していたと考えられる。たいていの港市には華僑が定住しており、
琉球船にも福建系の久米村華僑が通事(中国語通訳)として乗っていたので、交渉事務はほと
んど中国語で用が足りたものと思われる。
琉球から東南アジア方面への派遣船数を『歴代宝案』からみると、シャムが58隻ともっと
も多く、ついでマラッカ20隻、パタニ10隻、ジャワ6隻、パレンバン4隻、スマトラ3隻、スン
ダ2隻、安南1隻、この順で、合計104隻である。
このように琉球から南方・東南アジアへの船は多かったが、南方・東南アジア諸国の船が琉球
にきたのは、シャム船の2,3回だけで、全くは一方交易であった。
沖縄船は日本産の銅・刀剣や、中国産の生糸・絹織物・磁器などを転買し、南方・東南アジア
から染色の原料に用いられる蘇木や胡椒などの香辛料を輸入した。これらの輸入品を明への朝
貢品として再輸出されるとともに、日本や朝鮮へ転売され、仲介・中継貿易で莫大な利益をお
さめた。泡盛の製法もシャムから輸入された(39)。
5.琉球の大交易時代
14世紀後半から16世紀半ばまで、琉球は、いわゆる大交易時代とよばれる時期であった。
14世紀後半、琉球は、海外へ積極的に出ていく動きが本格化する。それを可能にしたのは大
型船の保有であり、朝貢の便宜をはかるという名目で明から琉球に大型ジャンクが賜与された。
この海外貿易船を、「進貢船」とよんでいる。
そのころ、中国では民間人の海外貿易は禁止されていた。また、すでに海外に居住する中国
人が故郷に帰ることも大幅に制限されていた。
このような海禁により、本国での貿易を厳しく制限された中国商人の一部が、新たな活動拠点
を求めて海外各地へ移り住み、そのため中継貿易の拠点として琉球の地位が高まったのである。
中国から流入する大量の銅銭(洪武・永楽通宝など)は港市の貨幣経済を活性化させ、アジア
各地から舶載される珍しい商品が那覇の市場で取り引きされた。
15-16世紀にかけて、琉球王国はアジアの貿易拠点としての地位を確立した。明や朝鮮と
の通交はもちろん、博多・対馬・堺・坊乃津などから多数の日本船が、胡椒や蘇木などの東南
アジア物産を買い求めるために琉球をおとずれた。
博多は、琉球―日本―朝鮮を結ぶ東アジア貿易ルートの重要拠点であると同時に、瀬戸内
海をへて兵庫・畿内へ至る国内流通の結節点でもあった。琉球ルートの貿易品は博多を経由し
て日本市場に流通し、その一部は壱岐・対馬を経由して朝鮮半島へ転売された。
そのころの琉球人の活動をポルトガル人であるトメ・ピレス「東方諸国記」によると以下の
ように記している(39)。
「われわれの諸王国でミラノについて語るように、中国人やその他のすべての国民はレキオ
人について語る。彼らは正直な人間で、奴隷を買わないし、たとえ全世界とひきかえでも自分
たちの同胞を売ることはしない。彼らはそれについては死を賭ける。(中略)かれらは色の白
い人々で、シナ人よりも良い服装をしており、気位が高い。かれらはシナに渡航して、マラッ
カからシナヘ来た商品を持ち帰える。かれらはジャポン(日本)に赴く。それは七、11日の
航程のところにある島である。かれらはそこでこの島にある黄金と銅とを商品と交換して買い
入れる。レキオ人は自分の商品を自由に掛け売りする。そして、代金を受け取る際、もし人々
が彼らを欺いたとしたら、彼らは剣を手にして代金を取り立てる」。
このレキオ人とは、もちろん琉球人のことである。日本が南方貿易を始めたのが16世紀後
半で、琉球は日本より100年以上も早く、東南アジア地域で交易活動を行っていたことになる。
明国への琉球の入貢回数は171回で、2位のベトナムの89回、朝鮮30回、日本19回と比較
すると、断トツの1位である。琉球の大交易時代、中国に渡航した琉球人は延べ10万人(清
代をいれると20万人)、東南アジアヘの渡航者は延べ3万2,300人にも達するという。16世紀
の琉球の人口がほぼ10万人程度だったことを考えると、驚異的な数値といえる(40)。
このような壮大な交易によって、レキオたちは東アジアの各地域や国々の文化を琉球にもた
らし、独自の王国文化を形成していったのである。
琉球は、東アジア・東南アジア地域の中継貿易国として栄え、ヨーロッパ人にも、レキオ
またはゴーレス人として知られるようになった。琉球の"大交易時代"とよばれるゆえんであ
る。琉球はこの時期に王国としての体制をかため、東アジア社会の一員として認められたのである。
では、なぜ小さな琉球王国が、東南アジアまでの大交易を行うことができたのであろうか。
第1は、琉球の地理的な有利性である。琉球は、地理的に中国、日本、東南アジアのほぼ中
心にあり、航海術の進歩もあり、海洋貿易では地理的に優位な場所にある。
第2は、琉球には産物が少なく、海外交易を進めなければ、国を発展させることができな
かったことがある。
第3は、明の中国商人への海禁政策である。
明は、冊封を受け入れた国とのみ朝貢貿易を行い、中国商人が海外で自由に交易することを厳
しく禁じていた。そのため、14世紀後半から16世紀にかけて、マラッカ海峡以東のアジア
海域で南北の流通を担う中国商人の活動が鈍ってしまい、琉球商船が活躍する好機がめぐって
きたのである。
第4は、中国の明と琉球との朝貢貿易体制である。琉球交易において、東アジア世界に君臨
していた中国皇帝の権威が後ろ盾になったということである。
第5は、琉球から海外へ積極的に出ていく動きが本格化する14世紀後半、それを可能にし
たのは大型船の保有であり、朝貢の便宜をはかるという名目で明から琉球に大型ジャンクが賜
与されたことである。
6.琉球貿易の衰退
琉球の大交易時代も、長くは続かなかった。 琉球王国の最盛期は、16世紀前半であった。
16世紀ごろからヨーロッパ諸国の地理上の発見でポルトガル、スペインなどが東南アジアへ
の進出してきた。1420年から1620年にかけて、ヨーロッパ人による海外進出が活発に展開され
たが、その200年間の歴史は一般に「大航海時代」と呼ばれる。この時代には、スペイン、ポ
ルトガルをはじめヨーロッパ勢力のアジア進出によって、遠洋航海ルートが開拓され、はるか
海を越えて大規模な人の移動が可能となり、貿易と物産の交流が地球的規模でおこなわれるよ
うになった。アメリカの歴史家ボイス・ペンローズの言によれば、「大航海時代」とは、地球と
いう広大なキャンバスに描かれた壮大な叙事詩であるという(41)
日本も、16世紀の後半ごろから堺商人などが活躍し、活発に交易活動を行うようになった。
中国でも海禁政策が緩み、中国商人が盛んに商業活動を繰り広げることになった。また、中
国の国力が衰えたことで、琉球へのジャンク船の支給も停止された。さらに、中国人を主体と
した倭寇の活動が激化した。
琉球王国は、豊臣秀吉や薩摩の島津氏が服属を求めたため動揺がはじまり、1609(慶長14)
年に薩摩藩に征服され、王国の体制のまま日本に服属するとになった。
以上のような要因などがあり、琉球の中継貿易の役割は減退していった。琉球は、中国への
渡航を除いて、1570年のシャムへの使船を最後に、東アジア・東南アジアの表舞台から消え
ていった。16世紀の後半になると、ポルトガル・スペインのアジア進出と日本の交易活動の発展
(特に堺商人の活躍)、および中国沿岸に出没する倭冠(海賊)に脅かされ、琉球の中継貿易は
急速に衰えていったのである。
転載元: 海洋文化交流/貿易振興